第24話 少女の深愛
――伯父上と二人っきりになれる機会を戦が終わってからずっと探していたが、やっとその時がきたようだ。
宴が終わった後、春藍は少し緊張しながら、水の入った壺を持って霄文の幕舎に向かって歩いていた。春藍を霄文の念弟だと思っている幕僚の青年が、気をきかせて霄文の寝所へ水を運ぶ役目を春藍に託したためである。
春藍は敵陣で見つけた朱色のきらびやかな深衣に着替え、自分なりにめかしこんだ。それは女物ではなかったが、蓮の文様が織り込んである布で仕立てられた美しい品であった。
霄文と共にいるために戦場にやって来た春藍ではあるが、叱られ喧嘩した結果、口をきくことも少なかった。
――戦も好きだが、一番大切なのは伯父上だ。伯父上に喜んでもらえなくては、勝った意味がない。
春藍は宴での霄文の暗い表情を思い出し、不慣れな丈の長さの衣の裾をぎゅっと握りしめた。怒らせただけならまだしも、春藍が呂国軍を叩きのめしてからは、苦悩させてすらいるようであった。
なぜこうなってしまったのか、春藍にはまったくわからない。理屈では理解できるような気がしても、気持ちが納得しないのである。
春藍はただ、好きなことをすることで好きな人に喜んでほしかっただけなのだと、霄文に伝えたかった。どうしたら自分の気持ちを上手に言えるのか、そのことだけを考えて、春藍は霄文のもとを目指した。
雲の隙間から月がのぞき、白く砂利の道を照らしていた。似たような形の天幕が立ち並ぶ中、まっすぐに目的地へと進む。
そして春藍は、霄文の幕舎に辿り着いた。濃い緑色のその天幕は、司令官の寝所とはいえ周りにある天幕と外見上の違いはなかった。
「将軍、水をお持ちしました」
春藍は銀色に縁取られた入り口の布の前に立ち、霄文を呼んだ。わざと低く、男っぽい声を出す。
「ご苦労だった。一寸待て」
中で人が動く気配がして、布が上がる。細かく唐草の刺繍が入った寝衣を着た霄文が現れ、春藍を見るなり驚愕し後ずさった。
「春藍、なぜお前が」
「あなたの部下の方が、気をきかせて頼んでくれたんです。ほら私、あなたの念弟だと思われていますから」
春藍は青磁の壺を突き出し、にっこりと笑った。
「あいつめ……、余計なことを」
霄文は目をそらし、舌打ちをした。
春藍は上目使いで霄文を見上げる。
「私が深夜に寝所に侍ることに、何かご不満ですか?」
「お前の夫は都の新妻を放って、戦地で念弟と同衾したと噂されるのだぞ」
霄文は嫌そうにしかめっ面をした。
「いいじゃないですか。別に私は気にしません」
春藍は壺を霄文に押し付けると、強引に天幕の中へと進んだ。
「まったく、お前というやつは」
霄文は仕方がなさそうに、春藍を通した。
天幕の中は机に床几、寝台と、櫃が数個並んでいる他は何もなかった。
霄文が寝台に腰掛けたので、春藍も当然のように隣に座った。春藍の朱色の衣が、ぱっと広がる。白色の糸で織りこまれた蓮の柄が、蝋燭の光にきらめいた。
霄文は控えめに春藍を観察すると、ひげを引っ張りながらぽつりと言った。
「綺麗な衣だな」
「これは伯父上に会うために選びました。気に入ってもらえてうれしいです」
春藍は誇らしげに袖を広げて見せた。敵陣で得たものであることは、伏せた。
「お前によく似合っている」
霄文はちらりと春藍を見て、言葉少なく褒めた。頬がいつもよりも紅いのは、気恥ずかしさがあるからなのか、酔っているからなのか、春藍にはわからなかった。
春藍は霄文の隣にいられる幸せを噛みしめ、体を伸ばした。
「こういうの、ひさびさですね」
思い出してみると、言い合いをせずに会話をしたのはかなり前のことであった。
少し間をおいて、霄文が答える。
「そうだな。お前のおかげで勝てたから、こうしていられる。礼を言う」
春藍が戦ったことに触れたとき、霄文の瞳が翳った。宴席で見せたのと同じ、思い悩む表情が再び顔を出す。
――まただ。また私は、伯父上を困らせている。
どうしようもなく歯がゆくなった春藍の頭に、言いたいことがいくつも浮かんでは消えた。妙なことを口走りそうになるのをぐっとこらえて、すぐ近くにある霄文の疲れた横顔を見つめる。
「私が戦に関わることは、それほど悪いことなのですか?」
少し上擦った声で春藍は尋ねた。普段の強い調子はなりをひそめ、少女らしい戸惑いがそこにはあった。
春藍のまっすぐな問いに霄文は一瞬黙り、目を見開いた。だがすぐに落ち着きを取り戻し、重々しく口を開く。
「……わしはお前に、戦争とは関係ないところで生きていてほしかったのだ」
春藍と目を合わせることなく、つぶやく霄文。
春藍は朱色の衣を翻し、さっと霄文に向き直った。
「でも私は、あなたと共に戦いたくて……」
懇願するような必死さをこめて、春藍は身を乗り出す。
霄文は教え諭すように、春藍の頭の上にそっと手を置いた。堅く大きい手が、春藍の黒髪をゆっくりと撫でていく。
「春藍、戦場で手に入る栄光や名声など、人の死の上に築かれるまやかしに過ぎん。わしが国に勝利をもたらす英雄に見えた時があったとしても、それは誤りなのだ」
少し迷いながら春藍を肩に抱き寄せ、霄文は続けた。
「いくら大義を掲げても、必要悪だと言い聞かせても、わしのやっていることは殺戮だ。いつかはわしも報いを受ける。わしはお前も同じ道を歩ませたくはない」
慈しむように春藍を抱きしめる霄文。悲痛な覚悟と願いを滲ませて、声がかすかにかすれた。
霄文の力強い腕の中で、春藍はその体温と吐息を感じ目を閉じた。
――あぁ、そうか……。伯父上はご自分を許していないのだ。だから、苦しんでおられる。
春藍はそのときやっと、霄文の気持ちを少しは理解した。自分は普通の幸せを得ることを捨てているのに、春藍にはまともな人生を歩ませようとする霄文の孤独な優しさに息がつまった。
犠牲から目を背けずに傷つくその真摯さは、物事を割り切って葛藤を忘れる鈍感な春藍にはない、異なる世界の捉え方だった。その自分とは違う繊細な真面目さが、春藍はたまらなく愛しいと思った。
春藍は霄文の頑健な肩から顔を離し、その頬に触れた。日焼けした肌はざらつき、乾いていた。
霄文は春藍からの接触に困惑し、凝視した。
春藍は霄文の視線を受け止め、ささやいた。
「伯父上、私はあなたの妻です。私は妻として、あなたの苦しみを理解したいのです」
春藍は霄文の腕に包まれながら、その顔を見上げた。春藍の表情に強い意志と感情が宿る。
春藍に見つめられた霄文の瞳が揺れた。春藍から目をそらし、押し黙る。そして再び霄文は春藍を見つめ、ためらいがちに声を絞り出した。
「……ならばお前は、わしと結婚するべきではなかった」
思い詰めこらえたような霄文のまなざしに、春藍は耐えきれなくなってつい逆上した。
「何故そのようなことを仰るのですか? 私はただ自分のできることで、伯父上のお役に立ちたいだけです」
霄文の手を払いのけ、厳しく責め立てる春藍。その激しさは、霄文への愛の深さの裏返しである。
――私はまた、伯父上を傷つけているのか。
春藍は語気を鋭くなじりながらも、自分が今発言していることを後悔した。それでも、あふれ出た言葉が途切れることはなかった。
「伯父上のそばにいることこそが、私の一番の幸せだというのに。それを否定なさるあなたは、むごい。冷酷です」
大声で言い終えた春藍は、はぁはぁと息があがっていた。寝台に手をつき、霄文をにらむ。
霄文はつらそうな面持ちで、春藍の手に自分の手を重ねた。白い寝衣がぱさりと、音を立てる。
「だがお前は若く、わしは老いた。わしがお前と共にいられるのはわずかだろう。その短い時間でさえ、わしは戦場の光景を忘れられない。お前が、目の前にいるのに」
霄文の切々とした思い遣りに、春藍は何も言えない。重ねられた手の指は節くれだっており、ごつごつと堅く温かった。
白髪まじりの黒髪、細かいしわが寄った目、衰えが垣間見える手首、それらが鮮やかに春藍の目に映し出され、嫌でも違う時間を生きていることを実感させる。
沈黙する春藍に、霄文は静かに微笑んだ。
「わしはお前がその強さで身を滅ぼしてまでそばにいる価値のない男だ。他の幸せを見つけて、長生きしろ」
不幸な死を前提としたその願いは、哀しく春藍に響いた。
――伯父上がこれほど思い悩まれているのに、私は何もできないどころか、より苦しめてしまうのか……。
あまりの霄文の心の手の届かなさに、春藍は心が折れそうになった。
しかしそれでも、春藍は霄文の脆さや弱さに触れたかった。二人の間にどんな深い溝があったとしても、あきらめられなかった。
春藍は霄文の手の下にある自分の手を返すと指を絡ませ、強く握って簡単には離れられないようにした。そして、空いている方の手で霄文のあごを掴むと、素早く下から顔を近づけ唇を重ねた。反射的に目を閉じた春藍の脳裏に、温もりや感触が一瞬で刻まれる。
霄文は焦り狼狽し、速やかに春藍を引きはがして押し倒した。春藍の黒髪が、寝台の上で乱れる。霄文は茫然と言葉を失い、春藍を見下ろした。
春藍は目を潤ませながら、影になった霄文の顔をにらんだ。泣き出しそうになるのをこらえながら、春藍は必死で途切れ途切れの言葉を紡いだ。
「……私は、伯父上に価値がないなんて思いません。ずっとそばにはいられなくても、結局困らせるだけの結果だったとしても、伯父上との時間は、私にとっては大切なものなんです」
いつの間にか、春藍の頬には涙が伝っていた。もはや完全に泣き出した春藍は、しゃくりあげながら霄文にきいた。
「伯父上にとっては、それは価値のないこと、なんですか?」
自分を見つめたまま泣く春藍を、霄文は狂おしく抱きしめた。
「そんなわけないだろう」
あやすように、ささやく霄文。白い寝衣が、朱色の衣に被さった。
こうなってしまったら、もう理屈の問題などではなかった。
霄文の体の下で、春藍は手を上げてその腰に手をまわした。衣越しに感じる確かな存在感に、鼓動が速まり体は熱くなる。
息ができないほどの切なさに押しつぶされそうになりながら、春藍はそっと耳元で懇願した。
「共にいることができる時が短いなら、せめて今夜だけは一緒にいてください」
「……いいだろう」
霄文は春藍の黒髪に顔を埋めながら答えた。その表情にはあきらめの色が浮かんでいた。
首筋にかかる吐息のくすぐったさに、春藍は身をよじって笑った。
「今夜は、一晩中相手をしてもらいますからね」
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