第3話 臣下に君主
采国の皇帝・李雄冬に呼び出された霄文は、煉瓦がすき間なく敷かれた宮殿の渡り廊下を歩いていた。規則的にならぶ赤い柱が、太陽の光を遮り床に影を落としている。靴の音が、静まりかえった空間に響いた。
――雄冬め、今日はまともな用事なのだろうな。毎回どうでもいいことで呼びつけておって。
霄文は心の中で毒づいた。霄文にとって雄冬は今は主君だが、知己であり幼なじみであることは変わることがなかった。
廊下の突き当りには、衛兵が扉を守る部屋がある。そこが、霄文の向かっている雄冬の執務室であった。
霄文が近づくと、衛兵は何も言わずに菱花の紋の格子が入った戸を開けた。
「失礼いたします」
霄文は部屋の中へと進み、軽く一礼した。
執務室は、王の居場所らしく細工をこらした調度品が並んでいた。窓は半透明の白い瑠璃でできており、部屋を明るく照らしている。
流麗な山水画の描かれた衝立に囲まれ、雄冬は卓を前にして蓆にゆったりと座っていた。
「待っていたよ、兄上」
雄冬は春藍によく似た彫りの深い顔をほころばせ、霄文に笑いかけた。硬めの髪や優雅に弧を描く太い眉、きりりと通った高い鼻筋などはほとんど瓜二つと言えるほど、雄冬は娘の春藍とそっくりであった。日に焼けて精悍な印象の春藍に対して、病弱な雄冬は色白で非力そうであったが、それでも二人はよく似ていた。
霄文は慣れた様子で卓の前まで進むと、遠慮することなく座った。
「陛下、わしのことを兄と呼ぶのは、いい加減やめてはくれませぬか?」
霄文は形式的に敬語を使いながら、親友であり新妻の父でもある皇帝・雄冬に苦言を呈した。
「嫌だね。こうやって兄上と二人で人目を気にせずゆっくりするために、わざわざ執務室に呼んでるんじゃないか」
雄冬は卓に載った湯呑にお茶を淹れ、上目づかいで霄文を見つめる。
「で、春藍とはどう? うまくいっている?」
雄冬は茶の入った湯呑を霄文に勧め、いたずらっぽく微笑んだ。
霄文はお茶を受け取り、飲んだ。
「率直に申しますと、良くはないでしょう」
霄文は困り顔で、ひげを引っ張った。
雄冬とは違い、霄文はあまり春藍との結婚には乗り気ではなかった。春藍のことを姪として大切に愛してはいたが、結婚するには自分はあまりに年を取っていると思っていたし、またお互いに結婚にふさわしい感情を抱いているとはまったく考えられなかった。
それでも霄文が春藍と結婚したのは、春藍が自分と結婚することで少しは女性らしい生き方をするのではないかと期待したためであった。
霄文は、自分への憧れゆえに人並み外れた力を手にした春藍の将来を案じていた。しかし、春藍に霄文の想いが届くことはなかった。春藍は結婚後も何一つ変わることなく、誰よりも強くなることで霄文のそばにいようとしていた。
「春藍に武芸を教え込んだのはわしですが、まさかこれほどまでに成長するとは……。果たしてわしは春藍に、戦い以外の生き方を教えてやれますかどうか」
霄文は目を伏せ、かつての自分を後悔した。霄文にとってこの結婚はある種の落し前であった。春藍から普通の道というものを遠ざけたのが自分であるなら、形は何であれ、自分が責任を取るべきであると、そう考えていた。
思い悩む霄文に雄冬はするりと近づき、恍惚とした表情で頬を寄せささやいた。
「大丈夫だよ、兄上なら。……私も、女に生まれたなら兄上と結婚したかった」
うんざりした顔で、霄文は雄冬を横目で見た。
「まだ、それを言いますか?」
霄文は雄冬の姉の麗海と結婚した時からずっと、その言葉を聞き続けてきた。
――もしも雄冬が女だったら……。たやすく想像できるだけに、洒落にならん。
無二の親友である主君の女々しい気性に、霄文はいつも困っていた。雄冬は王としての能力も申し分なく、また友として付き合うにもそれなりに楽しい人間であったが、その親愛は少々面倒くさいところがあった。
娘の春藍よりもずっと女らしいしぐさで、雄冬は首を傾げた。長い睫の奥の瞳をきらめかせて、霄文を見つめる。
「だって私はお淑やかだし、春藍のように戦狂いじゃないし、きっと兄上の良いお嫁さんになれたと思わないか」
「陛下、いい加減にしてください」
霄文は腕を組み、雄冬を叱った。
だがそれは雄冬を喜ばせただけであった。
雄冬は繊細な唐草の刺繍が施された衣の袖で口元を隠し、くすくすと笑った。
あまりにも幸せそうに笑うので、霄文の方もつられて苦笑した。
雄冬の笑いがおさまるのを待って、霄文は本題を切り出した。
「それで、わしを呼んだ理由はなんですか」
雄冬はまだ笑い足りないと言った様子で、残念そうに上目づかいで霄文をみつめた。
「もうお堅い話?」
「陛下」
霄文がわざとらしく真面目くさると、雄冬はしぶしぶと書簡を卓の上に広げた。
「これは胡人が侵入して困っているっていう、西の郡太守からの出兵要請だよ」
胡人というのは、大陸の西部や北部に住む異民族のことである。自らを中華とみなす漢人は、周辺の異民族を夷狄として見下していた。しかしこのころは北部に住む異民族が華北に流入したため、漢人は南に追いやられていた。大陸はいくつもの小国に分裂し、長い戦乱の世が続いていた。
雄冬はげんなりした声で、説明を続けた。
「兄上のおかげで、なんとか大河より南の領土は守れている。だけど最近、西の辺境がきな臭くてね」
「西ですか。少しは隣国を冊封していると記憶してますが」
霄文は周辺国の位置関係を思い浮かべた。
冊封とは、皇帝が周辺国の支配者に称号を授けることである。冊封を受けた国は藩属国となり宗主国の皇帝に従うという仕組みになっており、両国の間には君臣関係が結ばれるはずのものであった。
表情を曇らせ、雄冬は卓にほおづえをついた。
「一応ね。でも呂国とうちの国、両方から冊封を受けている国も多いから、あてにならなくて」
「侵入してくる胡人は、呂国と手を組んでいるということですか」
「多分、そうだと思うよ」
呂国は、分裂した華北が統一されてできた国であり、采国の最大の敵国である。
北の異民族と南の漢人は、采国と呂国が建てられる前からずっと争い続けてきた。采国もまた建国当初から北伐を繰り返していたが、北方の領地の回復には至っていなかった。
「では、わしは次は西へ?」
霄文は特に間を置かずにきいた。戦は好きではなかったが、出征を命じられるのはもう慣れていた。
「うん。兄上にお願いしようと考えてた」
「時期は」
「春になったらすぐに」
雄冬の受け答えもまた、あっさりしたものだった。
内乱に叛逆、侵略、征服。この時代に生きる人間にとっては、数えきれないほどの戦争が日常であり、平和こそが非日常であった。
「かしこまりました。すぐ準備に取り掛かりましょう」
霄文は早速、馬や兵糧の手配について考えを巡らせた。
「新婚早々遠くの仕事で、ごめん」
雄冬が申し訳なさそうに、肩をすくめた。
「別にわしは構いませんが……」
霄文が言いかけたその時、後ろの戸が勢いよく開いた。
「父上! お話したいことがあります!」
大声とともに入ってきたのは、春藍であった。宮中を走って駆けてきたのか、ほおは紅潮し息がわずかに乱れていた。
「春藍、私と兄上の時間を邪魔するな。お前は家で思う存分兄上と一緒にいられるじゃないか」
所有権を主張するかのように、雄冬は霄文の肩を抱いた。
「え、伯父上もいるんですか」
春藍の顔に困惑の色が浮かぶ。
「わしがいたら不都合か?」
雄冬の腕を引きはがし、霄文は棒立ちしている春藍を見つめた。
「だって伯父上は……」
言葉につまる春藍。
雄冬は仕方がなさそうに、娘に訪問の理由をきいた。
「今は次の戦について兄上と話していたところだけど、お前の用件は?」
「次の戦」という言葉に、春藍の瞳が輝いた。雄冬の前に座り、身を乗り出す。
「戦が近いのですか」
「あぁ。春に出兵を予定しているよ」
「指揮官はやはり伯父上ですよね」
春藍は熱っぽい調子で、雄冬に迫った。
雄冬は霄文と目を交わし、答えた。
「そうだよ。私が今、命令した」
それを聞いた春藍は、改まった様子で雄冬にひざまずいた。
「父上」
春藍は深く頭を下げ、願い出た。
「私を遠征軍に加えてください。次の戦には、私も伯父上とともに出陣したいのです」
ひざまずく春藍を、雄冬は表情を変えずに見下ろした。
「お前は一応女だってこと、覚えてる?」
「そんなのは些細な問題です」
春藍は顔を上げ、必死な面持ちで雄冬を見つめる。
雄冬はあきらめ顔でため息をついた。
「お前のその迷いのなさを、私はよく理解しているつもりだよ。お前がそう望むなら、私はお前が戦に行くのを止めない」
「父上、では……」
春藍の顔が期待で明るくなる。
しかし、雄冬の言葉には続きがあった。
「でも私は、軍事のことは基本兄上にすべてお任せしているんだ。兄上がうんと言わなきゃ、許可できない」
みるみるうちに、春藍の表情が曇る。
「兄上は、春藍が遠征軍に参加するのをどう思う?」
霄文に問う雄冬。
霄文はきっぱりと言った。
「わしは反対です。ご息女は確かに腕が立ちますが、戦の本質をご理解していらっしゃらない。また、物事を何かと軽く捉えるところがあります。少なくとも今回は、見送った方がよろしいかと」
「だ、そうだ。春藍。残念だったね」
雄冬は微笑し、春藍の志願をやんわりと蹴る。
「お待ちください。そこを何とかっ……」
春藍は食い下がったが、雄冬は聞く耳を持たなかった。
「じゃ、用事は終わったことだし、もう帰ってよ」
雄冬は手で部屋の出入り口を指し示した。
「承知、いたしました」
春藍はしぶしぶ父親に従った。未練がましげに立ち上がり、春藍は去った。
春藍の足音が遠ざかると、雄冬はうっとりした様子で霄文を見つめた。
「はぁーあ。いいな、春藍は。兄上と結婚できて。私も兄上に知らないうちに守られたい」
春藍を戦に連れて行きたくないのは何よりも春藍のことを案じてのことだと、霄文は雄冬に見透かされていた。
春藍が強すぎるのが、霄文は心配だった。あまりにも強い存在というものは、災いを呼ぶ。その強さゆえに春藍が身を滅ぼすのではないかと、霄文は恐れていた。
霄文は不安を隠すように、雄冬に微笑んだ。
「わしは今もこうして陛下にお仕えしているのですから、良いではないですか」
「じゃあ二人っきりの時には、昔みたいに私のことを名前で呼んでほしいって言ったら?」
雄冬は額がくっつきそうなほど顔を近づけた。
「それは、駄目です」
霄文が迷わず断ると、雄冬は頬をふくらませた。
「もう、兄上のけち」
春藍と雄冬は、顔だけでなくこういうときの反応も実に似ていると、霄文は思った。
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