戦神の姫君、蒼天を欲す
名瀬口にぼし
第1話 皇女と将軍
冬の寒さに凍る晴天に、澄んだかけ声が響き渡る。簡素な木の柵で囲まれた練兵所で訓練をする衛兵たち。その中にかけ声の持ち主、采国皇帝の長女・李春藍(り・しゅんらん)がいた。
高い位置で長い黒髪を結び、緋色の男物の衣もまとって槍をふるう春藍の姿は、少女というよりは少年であった。背の伸びかけた細身の体に、りりしい顔。瞳は怜悧な印象で、強い意思を宿している。髪に小さな花飾りが留められているのが唯一、女性らしさを感じさせた。
若い兵士と試合のために向かい合いながら、春藍は期待で薄く微笑んだ。
――若手で一番強いなら、少しは手ごたえがあるかな。
相手の兵士は春藍よりも少し年上に見えた。残りの衛兵は観客にまわって二人を囲んでいる。
若い兵士は少し緊張した面持ちで、何回か春藍に槍を入れる。春藍はそのすべてを受け流し、避けた。
――なんだ。わりと弱いじゃないか。
期待はずれな相手の実力にがっかりした春藍が槍を軽く払うと、兵士の槍が宙を舞った。体勢を崩しよろめく兵士。
あとは一瞬で勝負は決まった。
春藍はすばやく姿勢を低くして、訓練用に布の巻かれた穂先で兵士の胸を突いた。春藍の攻撃は神業的に速く、正確で、そして重い。春藍の鋭い一撃をくらった兵士が打ち倒される。
単純だが鮮やかな手並みに、観客が感嘆の声をあげる。
春藍は兵士の首もとに槍を向けて静止した。
兵士は地面にしりもちをついたまま春藍を見上げた。
「参りました。春藍様」
「まったくふがいないな、お前たちは!」
あっけない結果に、春藍は顔をしかめて槍を肩にかついだ。
「宮中を守る衛兵が、守る対象の私より弱くてどうする!」
「申し訳ありません」
春藍の容赦のない叱責に、兵士はひざまずいた。春藍の身分ではなくその強さを、畏れた。
春藍は『戦神の姫君』と呼ばれるほど、武芸に秀でている。その実力は異常なほど強く、同世代にはもはや敵はいないほどであった。
「春藍様に勝てる者なんて、この国の中でも限られた人材ですよ」
拳をもう片方の手で包んでおじぎをしながら、目の細い男が進み出た。この男の名は紀季徳(き・りとく)。采国の宮殿を警備する兵の責任者である。
春藍はつかつかと男につめ寄った。
「言い訳は嫌いだ。功夫が足りないんだよ、功夫が。中郎将、あなたの訓練が生ぬるいじゃないのか?」
中郎将というのは皇帝直属の軍の指揮官であり、身分はそれなりに高い。しかし春藍は、その位に敬意を払わず、尊大な態度をとった。
季徳は表情を崩さずに、丁重に春藍に頭を下げる。
「お叱りのお言葉、ありがとうございます。貴重なご意見、改善に活用いたします」
謝罪の言葉を述べてはいても、季徳には若い兵士と違って余裕があった。それは、季徳もまたかなりの実力者であることを意味していた。
「私と互角に戦えるものを、最低でも十人は育ててくれなくてはな」
季徳に怒りをかわされた春藍は、不機嫌そうに槍をもてあそんだ。
「春藍」
そのとき、春藍を呼ぶ声がした。
深い紺色の鎧を着た体格の良い男が、外套をたなびかせて練兵場の柵をこえて歩いてくる。年は壮年ぐらいで、冠の下で結ってある髪やきちんと整えられたひげには白いものがまじっていた。
「伯父上!」
仏頂顔から満面の笑みへ、振り向いた春藍の表情が瞬時に変わる。
この男こそが春藍の伯父にして夫の、采国の将軍・薛霄文(せつしょうぶん)であった。
季徳はひざまずき、春藍に対してよりも深々と霄文に礼をした。後ろの衛兵たちも季徳に続く。
「将軍。お越しいただき、ありがとうございます」
「紀中郎将。わしは別にここに偉ぶるために来たわけではない」
霄文はそう言って季徳を立たせたが、衛兵たちはひざまずき続けた。
春藍は季徳を押しのけて、猟犬のような俊敏さで霄文に駆け寄った。
「早朝訓練はもう終わったのですか? 朝は会えなくて残念でした」
「すまない。起こそうかとも思ったが、よく寝ていたようだったから」
霄文は小さくしわのよった目を細めて、春藍を優しげに見下ろした。春藍は背の低い方ではなかったが、八尺近くある霄文の前では小さかった。
「しかし、お前はここではずいぶんと大きな口をきいているようだな」
霄文は春藍の頭にぽんと手を置き、苦笑した。春藍は頬を赤らめた。
「見てたのですか」
「練兵所の外までお前の声が聞こえた。春藍、この国の前途有望な若者をいじめるのはほどほどにしろ」
少しだけ声を厳しくして、霄文は春藍をたしなめた。
「いじめようとは思っておりません。皆が弱すぎるのです。そうです、伯父上。せっかく来たのだから、私と試合してください」
春藍は目を輝かせながら霄文を見上げ、袖を引っ張り催促した。
しかし、霄文はやんわりと春藍の願いを断った。
「ここは紀中郎将殿の軍だ。中郎将殿に手合せしてもらえばいい。彼はこの国でも指折りの剣戟の使い手だ」
自分の名を出された季徳が、うれしそうに顔をほころばせる。
春藍は季徳をにらみつけ、反論した。
「中郎将は手を抜くから嫌です。私を相手にわざと負けるだけの技量があることは認めますが、面白くありません。私は伯父上とやりたいんです。私を本当に負かしてくれるのは、伯父上以外誰もいません」
皇帝の長女である自分に対して、力を出し切らない相手がいることに、春藍が気づかないことはなかった。手加減なしで戦ってくれる、自分よりも強い人を相手にしたいという春藍の願いは切実なものだった。
しかし、霄文は春藍の気持ちにはわざと気づかないふりをした。
「わしは今日は陛下に呼び出されたついでに、顔を出しただけだ。稽古はまたの機会にしておこう」
「そう言って、いつも相手してくれません」
そっけない霄文の返答に、頬をふくらませる春藍。霄文はふくれっ面の春藍の頭を撫で、微笑んだ。
「あまり、禁軍の人たちに迷惑をかけるなよ」
霄文の手は堅く、温かった。それが逆に春藍の神経を逆なでした。
「だったら、伯父上の軍に私を入れてくださいよ。伯父上のけち」
春藍はうつむきそうつぶやくと、霄文の手を振り払い駆けだした。
「春藍!」
霄文は困った顔をして、叱るように名前を呼んだ。
「邪魔者は退散します。これで文句はないですよね!」
春藍は柵をくぐると、振り向きざまにそう叫び、走り去った。
◆
春藍の足は速く、すぐに姿は見えなくなった。
霄文はあきらめて、ため息をついた。
季徳は衛兵たちに訓練を再開するように指図すると、寂しそうに細い目を霄文に向けた。
「僕もひさびさに将軍に稽古をつけていただきたいと思っていましたのに、残念です」
「季徳、お前はもうわしの部下ではないのだぞ。春藍と同じことを言うのはやめろ」
霄文があきれたように横目で季徳を見る。
季徳は静かに笑みを浮かべた。
「承知しています。でも、春藍様は本当にお強いですよ。僕が本気だしても、相手が春藍様じゃ完璧に勝てますかどうか。次は一緒に戦場にお連れするというのはどうですか。春藍様なら、必ず一騎当千の働きをなさることでしょう」
季徳の言葉はうやうやしかったが、霄文を困らせて楽しむような含みがあった。
「春藍の強さはわしだって知っておる」
霄文は刺々しく外套を翻し、季徳を一瞥した。
「邪魔したな」
そう言って、霄文も去る。
季徳は細い目を光らせ、霄文の後ろ姿を眺めた。
「わざわざ用もないのにあなたが来るとは。自分のそばに置いておけないのに、放ってもおけない嫁なのですね」
季徳はつぶやいてくすりと笑い、訓練に戻った。
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