第19話 少年と中年

 月が薄雲をおぼろに照らす夜。春藍は見張り台の上に登って空を眺めていた。木を簡単に組んだだけの見張り台は、都の城にある楼閣に比べれば低いが、それなりの高さはあった。

 仰向けに寝転がり目を閉じると、今まで感じたことのなかった不安が、春藍の胸の奥に広がっていった。


 ――私は伯父上に迷惑をかけているだけなのだろうか。何が何でもそばにいたいと思うのは、間違いなのか?


 いざ行動を起こした結果が、思ったものとは違ったことに動揺する春藍。もやもやと思いにふけっていると、人が近づく気配がした。


「姫、そこにいたんだ」


 甲高い呼びかけに春藍が目を開けると、慶峻がしゃがんで春藍の顔をのぞきこんでいた。

「悪いが、一人にしてくれ」

 不機嫌に寝返りを打ち、春藍は横を向いた。


 慶峻がお構いなしに、春藍の黒髪を引っ張る。

「それは、悩みを聞いてほしいって意味じゃないの?」

「臣下なら、主君の言うことをきかないか」

 春藍は起き上がり、慶峻の手を振り払った。


「あいにく俺は、忠義に厚い臣下ってわけじゃないからね」

 慶峻は春藍ににらまれても微笑みを崩すことなく、隣に遠慮なく座った。春藍はうつむき、ため息をついた。

「お前のそういうところは嫌いだ」

「別に俺のこと嫌いになって、護衛官の任を解いてくれても構わないんだよ。俺、働きたくないし」

「……それは、困る」

 冗談ではすまなさそうな慶峻の冗談に、春藍は嫌々本音を言った。悔しいことであるが、春藍にとって慶峻はやはりいなくては困る存在なのであった。


「残念、やっぱり俺が本当の隠遁生活を遅れるのは、しばらく先の話か」

 慶峻が残念そうに、頭巾を両手で引っ張り深くかぶった。しばらく黙ったのち、慶峻は横目で春藍を見て話を切り出した。

「次の攻撃に出陣させてもらえないことに、結構凹んでるみたいだね」


「伯父上は私が嫌いなんだ。私が子供だから」

 春藍は顔をしかめて、つぶやいた。

「そんなこと、ないと思うけど」

 慶峻が諭すように、返事をする。


「ではなぜ、伯父上は私を認めてくれないのだっ……」

 春藍の声は、怒りよりも不安が大きくなってきたためか、抑え気味であった。これまで何度も発してきた言葉だが、今までとは違う感情がそこにあった。

「私は何よりも誰よりも、伯父上が好きだ。伯父上は強くて、優しくて、英雄で……。それなのになぜ伯父上は、私の気持ちを理解してくださらない?」

 春藍はいらだちの中で、霄文への想いを吐露した。どんなに霄文に拒絶されたとしても、春藍の気持ちは変わらない。それでもやはり、距離を置かれ続けるのはつらいことであった。


「だからだよ、姫。それだから将軍は姫を遠ざけるんだ」

 慶峻は冷静に春藍に言って聞かせた。おぼろな月明かりが、頭巾で半分隠れた横顔を照らす。

 春藍は慶峻をにらみ、問いただした。

「どういうことだ」


「ま、姫が理解するには、材料が少ないよね。将軍が折れるのが先か、それとも二人このままずっと平行線か……」

 慶峻が、春藍の目を見ずにせせら笑う。


「わかった顔をしてないで、教えろ慶峻!」

 春藍は慶峻の肩を掴もうとした。しかし、慶峻はするりとかわして立ち上がった。

「今の姫じゃ、何を言ったってわからないよ」

 そう言うと慶峻は、ぱっと階段を飛び降りて姿を消した。


 ――結局私をいらつかせただけか。あいつは。


 春藍は慶峻が消えた方向を見つめ、舌打ちした。腹が立ったまま、再び寝転ぶ。

 頭上のおぼろ月の空を眺め、春藍は唇をかんだ。旅立つ前に見た青空と同じように、今夜の空も遠かった。





 春藍が慶峻にいらだちながら眠りについていたころ、霄文は自分の幕舎の中で作戦の確認作業をしていた。

 もうそろそろ寝る時間かとふと書簡から目を上げると、入口の布がふわりと揺れた。

 入ってきたのは春藍の護衛官である、慶峻であった。


「こんな夜更けに、何のようだ。陶慶峻」

 霄文は淡泊に、妻の臣下を迎えた。面と向かって話したことは少なかったが、慶峻の掴みづらい態度が霄文は苦手であった。


「采国の臣として、将軍に報告しに来ただけですよ。あなたの新妻である姫の様子をね」

 慶峻はすたすたと机まで近づくと、霄文に顔を近づけてささやいた。

「姫は、あなたが自分を嫌っていると言っていましたよ。自分が子供だからと」

 慶峻の薄い色の瞳には、相手をからかうような少年らしい輝きがあった。


 霄文はこの行動は一種の遊びなのだろうと思った。うんざりした口調で、霄文は答える。

「わしが春藍を嫌いなわけがないだろうが。好きでもないなら、あんな子供と結婚なんかしない」

 それは春藍に言ったことはなかったが、まぎれもなく霄文の本音であった。霄文は確かに春藍のことを愛してはいた。だからこそ、いくつか問題を感じてはいても結婚したのである。その決断が正しかったとは思えないが、かと言って結婚しなければよかったとも思えなかった。


「それ、本人に教えてあげてくださいよ」

 いたずらっぽく、笑みを深める慶峻。柔らかな茶髪が、さらりと揺れた。

「そんなこと言ったら、余計私から離れようとしないだろう、やつは」

 霄文は床几から立ち上がり、腕を組んで慶峻に背を向けた。


 慶峻は一瞬真顔になると、霄文を見据えて挑発した。

「そうやって大人ぶったままなら、俺が姫をもらいますよ」

「何だと?」

 予想していなかった言葉に、霄文は驚いて振り返る。だが慶峻はすぐに面白半分な少年に戻っていた。

「冗談ですよ。俺が面倒くさがりなの、ご存じでしょう? 姫みたいな厄介ごとの塊の人間はごめんです」

 慶峻はさっと机から離れ、入口へと下がった。茶色の文様で縁取られた袖で口を隠し、声をたてて笑う。


「それに、あなたが死んだって姫はあなたから離れませんよ。良かったですね、こんなに愛されて。ま、あなたには不都合みたいですけど……」

 捉えどころのない笑みを残して、慶峻は幕舎から退出した。耳障りな笑い声だけが、耳に残る。


 ――ますます、あの男に似てきたな。


 霄文は慶峻の育ての親である男について思い出した。

 ぼんやりとした闇の中に、郭遥伯(かく・ようはく)という名のその男の面影が浮かび上がる。恐らくまだ存命であるはずの男であるが、霄文にとって彼は生きて会いたい相手ではなかった。


 ――お前のような人間が、わしは一番嫌いだよ。遥伯。


 男の記憶を振り払い、霄文は部屋の明かりを消した。

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