第47話 神の試練(三)

 南から吹く潮風が、秋の涼やかな空気を通って城の物見の塔へ辿り着く。ユークレースの海はもう夕凪が近い。冬が過ぎて堪えやすくなった野外の見張りも、そろそろ交替の時間だ。

 一つ伸びをして海の方を眺めた見張り番は、波の上に浮かぶ船を見とめ、違和感を感じた。リアの港に発着する漁船の類ではない。不審に思い、単眼鏡を覗いた。

 拡大された像は、小型の帆船。風に膨らんだ帆にある百合と十字はトーナ王国の国章だ。そして甲板へ単眼鏡の焦点を下ろすと、自分の知る短い黒髪の青年の姿が映り込んだ。

「ラピス王女のお帰りだ!」

 見張り番は驚きと喜びで、塔の鐘を打ち鳴らした。




 それから間も無く、一頭の馬が城下からの道を砂塵を上げて城へ近づき、そのまま城門の中へ駆け入った。馬上に跨るのは細身の青年と、青年の腕に抱かれた雌黄の髪の少女。少女の白い肌には血の気がなく、目を瞑ったまま荒い息を繰り返している。

 青年は馬を急停止させると、黒髪が汗で顔に貼り付くのも払わず、呼吸の上がった喉を無理矢理に震わす。

「誰かすぐに医師を呼び、薬湯の準備を! ラピス様を早く部屋へ!」

 そう叫ぶのとほぼ同時に、少女はがくりと首を垂れ、青年の腕の中で気を失った。




 自室の寝台に横になってもラピスの乱れた呼吸の音は絶えず、時折り口から喘ぎ声が漏れる。眉間に皺を寄せて呻くさまを見るに耐えかね、クエルクスは顔を覆って寝台の横の椅子に力なく身を沈めた。

 トーナからユークレースに向かう船上で、ラピスは頭痛と寒気を訴えはじめた。最初は旅の疲れではないかと思ったが、容態はますます悪化し、遂には座っていることさえ敵わなくなった。手元にあった薬はおろか、船医の指示により途中の港で調達した薬さえ効かなかった。リアの城に帰城後すぐに参じた侍医も、全く原因がわからないと頭を抱える始末だ。

 ——クエルクス、私たちは港から先には入れない。

 親交国の近衛団と言えど、武器を備えた兵団が国王の許可なしに入国することは法に反する。アネモスたちは港に船を寄せてはくれたが、陸に近衛団が上がることはできなかった。その代わりだと、ヒュートスが船に乗せた近衛団の馬の一頭を貸してくれ、アネモスは甲板の上でラピスを抱き締めた。

 ——でも、ここにいるから何かあったら呼んで。罰せられても構わないから。

 そしてクエルクスのこともきつく抱擁すると、お守りだ、と自らが首に下げていた紅葉色の宝玉をラピスの首に掛けてくれた。

 女官に聞いたところ、宰相は今日、視察で城から外に出かけたと言う。城の中で他に宰相の息のかかった人間が誰かはわからない。クエルクスは、ラピスの世話は全て自分がやると言って人払いをした。だが容態が悪化した理由がわからないとあっては、側にいてもしてやれることがない。

 ——これが、蛇の言う「試し」なのか。

 女神の試し、と大蛇は言った。ラピスの不調が秋の国を出てからだという時系列と、全く原因も治癒法も分からない状態。単なる病ではない、となると、思い至るところは他になかった。

「ぅぁ……はぁ……っ……」

 いっそう大きい喘ぎにはっとして見れば、ラピスは苦しそうに目元を歪ませている。手の平を握ってやると驚くほど冷たく、桜色だった爪には色がない。時折り痛みに耐えるように息を止め、歯を食いしばった顔には冷や汗が浮かんでいる。

 せめて汗を拭ってやろうと、クエルクスは女官が布を置いていった卓の方へ振り返った。そこでふと、卓の足元に置きっぱなしだった自分たちの旅の荷物に目を止めた。

 細く開いた鞄の隙間から黄金の光が漏れ出て、床にできた卓の丸い影を照らしている。

「奇跡の、林檎……」

 覚束ない足取りで近づくと、自分でも意識せぬまま腕が伸び、輝く果実が両の手に収まった。黄金の粒子が林檎の面をぼんやりと縁取り、クエルクスの指までも煌めきの中に取り込む。

 ——神々に永遠の命を約束するという果実は、どんな病も癒すという。

 愛の女神の林檎。女神の意に適う使い方ならば、神の守りが与えられる。

「……ぁ……ぁああっ」

 我に返って寝台の方を見れば、ラピスの呼吸はさらに早くなり胸が大きく動いている。四肢が痙攣を繰り返し、喘ぎ声が絶え間なくあがる。

 クエルクスは小刀を取り出し、寝台に駆け寄った。ラピスを見て、片方の手に持った果実を見つめ、そしてまたラピスを見る。その顔に浮かぶ苦痛の色はクエルクスが知っているどんなものよりも強く、こちらが目を覆ってしまいたくなる。

もう迷っている暇などない。意を決して刀の刃を立てる。指に力を入れると切り口に眩い光が迸り、星屑と見紛う輝きを放って金の塵が舞った。

 ——加護を受けた者、と蛇は言った。

 他に手立てがない。救えるとしたらこれしかないのだ。

 ラピスが女神の加護を受けた者ならば、きっと奇跡の力が及ぶはずだ。

 ——どうか……!

 縋る気持ちで、クエルクスは黄金きん色に輝く切片を、ラピスの口に含ませた。ひくついていた喉元が一つ、大きく波打つ。

 その途端、ラピスの喘ぎ声が止まった。

 呼吸は途絶え、鳩尾を抑えて緊張していた拳が、力なく体から滑り落ちる。いまの今まで激しく上下していた胸の上ではもう、秋の国の木々と同じ色をした美しい玉が、動きを失ってそこにあるだけだった。

「ラピ……ス……?」

 両手で白い頬にそっと触れ、呼びかける。

 クエルクスの手から滑り落ちた林檎が音を立て、床を転がった。

 こわごわ、頬を軽く叩いて呼んでみる。叩く力を少し強め、呼ぶ声を大きくする。だがラピスはなんの反応も示さない。胸の上から落ちた細い手を取った。触れた肌からまだ微かに脈が伝わるが、みるみるうちにゆっくりと、弱くなっていく。それはもはや、触れている自分の脈で消されてしまうと思うほどだ。

「そんな……」

 口から漏れる震えた呟きに、ないはずのいらえがあった。

「ほう、女神の果実を口にしたか」

 冷徹な声が背中に刺さる。

「最初の指示とは違うが、まあ結果は同じだ。よくやったよクエルクス」

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