第3話 春の潮騒(三)

 てっきり父の余命を宣告されると思っていたラピスは、意外な言葉に拍子抜けした。

「もちろん、知っているけれど……」

 この国、いや、この世界に生きている限り、知らない者はいない、伝説の果実。

 ユークレースから北上し、いくつかの国を抜けて辿り着くその地、季節が巡らない神秘の場所。花咲き乱れる春も、陽の光が眼を焼く夏も、草木凍り霜張る冬もない。樹々は金の葉を風に揺らし、瑞々しい果実が枝に生り、獣たちが冬の準備をするというかの季節。常に秋の森があるという。

 その奥深くに立つ大樹は、地上の人間達の記憶を超えた太古の昔、神話の時代から生き続け、神々に守られた魔法の果実を実らせる。その果実は、夏の終わりに獲れる梨に似るが、それとはまた違い、太陽の如き黄金色に光る。

 名を、林檎という。

「神々の林檎が、どうかしたの?」

「ほかでもない。ラピス様、その林檎を取りに、北方へ出立する御気持ちはありませんか」

 開け放した窓の外では風が木々を揺らして立てる音や、外で遊ぶ子供の笑い声がするが、ラピスの耳にはどこかここではない異界のもののように聞こえた。部屋の張り詰めた空気の中で宰相の低い声だけが空気を揺らしているように、いやに明瞭に聞こえる。

 事の次第が分かった。

「父様の病状は、それほどまでに悪いのね」

 やはり、呼び出しの理由は予想と変わらなかったようだ。

 愛と美の女神に守られた林檎は、食べた者に生の力を漲らせ、その身に患った病や傷はたちどころに消える。神話の時代、神々はその林檎を糧に不老不死を謳歌し、寿命に憂うこともなく、永遠の若さと絶えぬ命を喜んだ。

 今となればその真偽は不明であり、神話伝説の一つに数えられるに至ったが、北方には確かに、一年通して落葉樹が黄金色に染まる秋の土地があるのだ。女神が住まうと言われるその地を、人々は「秋の国」と呼んだ。

「国王の病は長引き過ぎました。お体に残る力は僅か……最近は、御食事も召し上がる量が少なすぎます。御心をしっかりお持ちになれば快復なさると思っておりましたが、もうそれは望めません。このまま有効な薬もない状況が続けば……」

 宰相は淡々と言葉を連ねた。情を口にすれば、泰然としているべき自分の態度までもがそれに引きずられるとの配慮だろう。

「もはや、奇跡に頼るを得ないところまで来てしまっているということなの」

 宰相の身振りは、是、だった。

「わたくしも、年若の女性であるラピス様には厳しい道中なのではないかと心苦しく思うところです。しかし……」

「『楽園の林檎を手折れる者は、穢れなき処女でなければならない』」

 ラピスは人の口に伝わる物語の一節をそのまま引用した。そして眉を僅かに動かし、そういうことね、と宰相に確認する。相手が頷いたのを見て、ラピスは質問を続けた。

「……一人で?」

「それは流石に危険過ぎます。ただ、大勢で行けば歩みが遅くなる」

「旅のせいで、城で内政に携わる人や父の世話を見る人間が減ってどうします」

「仰ると思いました。少人数になってしまう代わり、になるかは分かりませんが、精鋭はつけます」

 宰相は一呼吸置き、ラピスの背後に視線を移した。

「クエルクスを。彼はもう承認済みだ」

 驚いてラピスは思い切り後ろを振り返った。そして平然と二人の会話を見守って立っていた青年を睨めつける。

 ——何用か知ってたわね。

 ——知らないなんて言ってません。

 ——なんで黙ってたのよ。

 ——こういうものは直に聞く話です。

 両者の間で繰り広げられる無言の応酬を感じ取ってか、宰相が言い添えた。

「私が黙っておけと言ったのですよ。同行者が彼だけでは、不安かもしれませんが」

 クエルクスを睨むのをやめ、ラピスは宰相に向き直る。薄紅の唇が開き、はっきりと言う。

「十二分です。参りましょう」

 その瑠璃の瞳に、迷いはない。

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