第2話 春の潮騒(二)
国王の部屋から自室に戻って、ラピスとクエルクスは特に何をするとも決めずに寛いでいた。姫に課される勉学も無い日は、いつも二人で思うままに午前を過ごす。大抵の場合はラピスが趣味の横笛を吹いており、その横でクエルクスが読書に耽るのがお決まりだった。
今日も初めて吹く曲を簡単にさらっていると、半開きの扉を叩いて、その間から侍女が顔を覗かせた。
「姫様、宰相が姫様にお話があるとのことです」
「宰相が?」
横笛を止めて聞き返す。国王に代わり、今は宰相が政務の采配をとっている。国王への相談じみたものと言えば会議の決議諸々の承諾を得るくらいで、それはほぼ事後報告的な性格を帯びていた。
ラピスはまだ年若く、知識も政治的勘も足りないゆえに、王位継承者として会議に出席しても、宰相から事の決定などに関して意を問われることはまずない。それはまだ父である国王の仕事である。平たく言えば、宰相から直々に呼び出しを受けるなど珍しい。特に今日は国王も起きていたのだから尚更だった。
「急ぎ?」
「さあ……。もし後の方がよろしいようでしたら、お伝え致しますけれど」
何だろうとラピスはクエルクスの方を見るが、クエルクスの顔には「まずは話を聞かないと」という答えが浮かんでいた。疑問を抱えつつも、ラピスは侍女に向き直る。
「分かった。今から行くから。ありがとね」
いえいえ、と軽く礼をとって、侍女は顔を引っ込めた。
ラピスの胸が、どくり、と脈打つ。
慎重で無駄を嫌う宰相が、他愛のない話のためにわざわざ自分を呼び出すなど、あり得ない。
——だとすれば——
非常事態を知らせる警鐘が、ラピスの頭の中で鳴り始める。感じまいとする胸のざわつきが、じわじわと体の中に広がる。横笛をしまう手の動きが意図せずしてゆっくりになる。
横に座っているクエルクスをもう一度見ると、仕方がありませんね、と、彼も片手の本を机上に置いた。
「一緒に行ってください、って言えばいいじゃないですか」
「うう……」
「人へのお願いはちゃんと言葉に出すものですよ」
自分の家族のことゆえに、依頼するのも遠慮されて言い渋ってしまうラピスなのだった。しかしそう我慢しても、クエルクスにはラピスの気持ちが文字になって顔に書いてあるように見えるのだろうか。
別に宰相のことが嫌いなわけでも苦手なわけでもない。ただ、いま時分の状況からして、この呼び出しに緊張を感じない方が無理だった。
執務室へ行くと、宰相は書類の山に目を通しているところだった。休息を知らないかのような彼の働きぶりは国王までもが心配するほどだが、本人がやりたいと言って聞かないのである。根っからの仕事好きらしい。
ラピスが来たのに気がつくと、宰相は焦げ茶色のガウンをはらって立ち上がり、部屋の中央にある卓へ来て椅子を勧めた。粛然とした彼の態度に落ち着きの悪さを感じながらも、ラピスは薦められるままに椅子に腰掛け、クエルクスがその背後に立った。
「お休みの日に申し訳ありません。折角の良い天気だと言うのに……」
「それは宰相も同じでしょう。お仕事ばっかりで。前振りはいいわ。本題は?」
予測はついている。聞きたくはないし、認めたくない話だと。しかし、真実ならば背を向けるわけにはいかない。
宰相は居を正し、ラピスと正面から向き合った。
「ラピス様は、やはり国王陛下に似ておいでだ。ええ、率直に申し上げましょう」
宰相の漆黒の髪に春の柔らかな陽が当たり、反射する。だが明るい日差しとは逆に、その顔はラピスの側からは逆光で影となり、表情が読み取れない。こちらを見据えている黒鳶の瞳は、今は深い闇のようだ。
一瞬とは思えぬほど重い沈黙に、ラピスは次の言葉を覚悟した。
しかし聞いたのは、予想だにしない言葉だった。
「姫は、奇跡の林檎をご存知ですね」
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