春の潮騒

第1話 春の潮騒(一)

 ユークレースは災禍や争乱とは無縁の穏やかな国である。国土は狭いながら、海に面した南端の地の利ゆえに、広く大洋を領土とし、水質に恵まれた海から得られる海産物と珊瑚をあしらった工芸品で経済的にも他国と肩を並べる。

 海に面した首都、リアに建つ石灰岩の城は、こじんまりとしていながらも要塞としての機能も果たし、その高い塔が物見台として北方の山々と南方の海を見張る。

 ただし幸いながらこの頃、血生臭い出来事も無く、兵の剣は式典と訓練を除いて鞘に収められること久しい。




「あぁ美味しかった。もう苺もそろそろ終わりかと思っていたのに、今年はまだ獲れるのね」

 無事に朝食の席へ滑り込み食事を終えたラピスは、自室で茶を喫しながら先ほど口にした果物を思い返して顔をほころばせた。食卓に並んでいたのは小麦を練って焼き上げた生地と魚の塩漬け、そして果物と茶という簡素なものである。この国では王家もけして贅を貪ることはなく、食事も基本的に臣下平民と大して変わらない。別の言い方をすれば、これは国の食はどんな食通も唸らせる水準を誇り、一般庶民も豊かで洗練された食事を摂っているという証だった。 

 食堂から貰って来た砂糖を茶碗に落とし、クエルクスもラピスの向かいへ座る。

「もう少ししたら杏が主流になりますかね。もしかしたら蜜柑や葡萄に変わってしまうかもしれないけれど」

「今年はまだ、星読ほしよみが確かではないの?」

 ユークレース周辺の国々——少なくとも交流のある諸国の範囲内では、四季が不安定である。一つの季節が異常に短かったり長かったり、氷柱のたつ極寒に耐えて春が来た後、また雪の降る寒さがぶり返すこともある。いま現在、「春」の季節であるユークレースで「春」が始まってからもう三ヶ月近く経つが、まだ気温は初夏の暑さに達していない。遠い異国で「四季」と呼ばれるものがあり、それが「春夏秋冬」の順に巡るということは、この国において書物や人の話を借りて伝わった知識であった。そうした知を借りながら、変転する季節と共に生活してきたことは、長い国の歴史から知れるところである。

 季節の変化を計る技とその生業を「星読み」という。「星読み」は天空を「読んで」次の季節を予兆する。だが彼らの技術の精度は人によって様々であるのに加え、季節の巡りは記録を元に行う星読みの知を超えることもある。したがって、「星読み」の予測は気象観測ほどの確かさもない。

 クエルクスの表情から肯定を読み取り、ラピスは溜息をついた。

「この国で早く枇杷がとれる頃まで季節が変わるといいのに。父様は枇杷がお好きだもの。お口にしたら、少しは回復されるかもしれないわ」

 何も問題が無いように見えるユークレースが目下抱える唯一の悩みは、賢君と名高い国王の病である。まだ老齢というにはほど遠い王は、最愛の妃に早くして先立たれた後、気力精力を失ってしまった。折悪しくその時分から、季節が常にないほど予測不能な転換を始め、気候の変動が精神を病んだ国王の身体をも蝕み、このところは床につくことが多い。

「姫様が沈んでいては、陛下もお心休まりませんよ」

「元気なふりほど、疲れることもないわよね」

「そう仰らずに。ほらその膨れっ面」

 言われてますます頰が膨れる。従者として長年一緒に過ごすがゆえ、クエルクスはラピスに対しても妹のように接する。

「今から行こうかしら」

「陛下のところに?」

 国王は起床に難儀する日もあるため、皆と朝食を共にしないことも多かった。今朝の会議でも見ていない。きちんと食事が喉を通っているのか心配になる。

 クエルクスを上目遣いで見つめると、気付いてますよ、と答える視線にぶつかった。

「先にいらしていていいですよ。すぐに行きますから」

 この青年の態度は起伏が浅い。しかしラピスには、彼の考えていることが分かるのだった。

「ありがとう。お願い」

 うきうきと茶を飲み干し、卓から小箱を取って部屋を出る。クエルクスも茶碗を置き、本棚から一冊取り出して手慣れた手つきで頁を手繰った。



 リアの春の朝の陽射しは柔らかい。王宮の中には吹き抜けが多く、廊と廊が出会う小さな空間の天蓋には玻璃の窓が付けられ、室内に明るい光を採り込む。棟を結ぶ渡り廊下は屋外となり、海風が吹き抜ける。ラピスはこの渡り廊下を歩いて風を肌に感じるのが好きだった。

 国王の部屋は西の棟。ラピスの自室がある東の棟から、会議の間や内政を司る部署の置かれた中央棟を挟んで対角の位置にあった。だがラピスの足は南の棟へ向かう。海を横に見ながら大回りして西の棟へ行くのも常のことである。

 国王の部屋の扉は開いていた。王は窓辺の椅子にもたれて読書をしているところだった。ぱたぱたという元気のいい足音を聴いて、書を捲る手を止める。ゆったりと顔を上げ、娘を迎えた。

「おはよう。今日はどうしたかな」

「おはよう父様、今朝は見せたいものがあるの」

 ほう、と興味を示してみせる父に、ラピスは手に持っていた小箱を開けた。彩色は無いが、職人が蓋に四季の花を彫りつけた洒落た品で、ラピスの宝物の一つである。

星獲ほしとり貝の貝殻か。珍しいな。浜に?」

 箱の中を覗き込み、王は感心した様子で貝を摘まみ上げる。春の海にのみ、それも満月の時にたまにしか陸まで来ない貝なのだ。

「港の小舟の中よ。藻か網にかかっていたのじゃないかしら」

「朝行ったのか。ラピスのおかげでいいものを見た」

 こういう時、父はうるさく叱ることがないのもラピスは好きだった。口癖は、いろいろなところに行って、多くのものを見て来なさい、である。

「ところで父様、今朝はこちらでお食事を?」

「いや、あまり食べる気もしなくて。さっきまで宰相と話していたところだよ」

 国王は申し訳なさそうに眉を下げて笑った。娘に心配をかけるのがすまなく思われたのだ。ところが、ラピスの目は国王の言葉を聞いてぱっと輝いた。

「なら、お腹いっぱいではないわね!」

 嬉々とした声と同時に、戸口にクエルクスが現れ、盆を手に入ってきた。

「お待たせしました。御加減、思わしくないようですが、こちらならお召し上がりいただけるのではないかと」

 そう言って差し出されたのは、緑の葉と輪切りの檸檬が浮かべられた水と、皿に溢れんばかりの苺。洗い立ての果実の紅の上で水滴が煌めき、まるで宝石のようである。

「国王は果物がお好きですから。姫様の御心遣いです」

「私は何も言ってないわ。クエルの気がきくだけ」

 にこにこと笑うラピスに、照れるでもなく、否定するでもなく、クエルクスは微笑した。この薬草の入った檸檬水を最良の割合で作れるのが、城の中でクエルクスしかいないことは国王も知っている。その分量を誰にも教えたがらないこと、そしてそれを好む自分と王女には、決して渋ることなくいつでも作ってくれることも。

 どちらとも示し合わせることもなく、ラピスとクエルクスは一言二言、口にするだけで通じ合っているのだろう。旬の物をどう食べるのが一番か、あれこれ議論する二人の様子を、国王は穏やかな眼で眺めていた。

 自分が二人を見守ってやれる時間は、あとどれほどかと思いながら。

 医師に宣告された生の時間は、短かった。

 伴侶の死は、ようやく受け容れられたと思った。国のためにも早々に快復を、と思えるようになったところだった。

 しかし、別離の悲しみを乗り越えるのに時間がかかり過ぎた。

 患った精神が身を冒し、病が治癒の難しいところまで来ていると医師から告げられたのは、つい先ほどだった。

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