第14話 星の転換(二)

 そろそろ大方の客が床についたと思う頃、ラピスとクエルクスの客室の扉が叩かれた。クエルクスが応じると、例の青年が毛織の上着を羽織って間口に立っている。

「約束通り、行くよ。少し冷えるから何か着るものを持ってついておいで」

 上着を持って青年の後ろに続くと、彼は宿の二階の隅へ進んでいく。そこには梯子が立て掛けてあり、梯子の先は天窓から外へ続いていた。青年は慣れた様子でその梯子を上ると、上から顔を覗かせてラピスたちを手招きした。

 天窓の外には、屋根と屋根の間に数人が立てるくらいの平らな部分があった。青年の荷物だろう。足元に帳面や毛布、それから折り畳み式の椅子が置かれている。

 春の夜の空気は適度に湿気を含んでいて、顔を撫でる風が柔らかい。屋根の縁から見下ろせば、菜の花畑が月明かりに照らされて丘一面を覆っている。

 丘の上には、宿と民家の軒先に下がる灯の他にはほとんど人口的な光がない。しかし上を見上げて、ラピスとクエルクスは感嘆の吐息を漏らした。

 無数の星々が夜空に散りばめられ、夜の闇を銀色に輝かせている。その中にひときわ強く、白く光る月がある。街灯の多いリアの街では見たことのない光景だった。

 青年は、口を開けて真上を見ている二人組を見て満足そうに頷き、足元から帳面を拾い上げる。

「いい顔だなぁ……さて、始めるよ」

「始める?」

 我に返って、ラピスとクエルクスは異口同音に問う。

 青年は帳面を開いて鉛筆をとった。

「星読みだ」

ラピスは驚いて、首を青年の方へ勢いよく回した。

「星読み……って、お兄さんは星読みが出来るの?」

「僕はこの街の星読みを担当しているからね。そしてこの辺りだとこの丘が一番障害物が無くて空が見やすい」

 青年はラピスの方は向かずに、手早く帳面に何か書き付けながら答えた。

「今日みたいに晴れた日には特に星がよく見える。見えると思ったら登るんだ」

 乗合馬車で一緒になった地元の人が青年と顔馴染みらしく見えたのはそういうわけだったのかと二人は納得した。青年は折り畳み式の椅子に腰掛け、足元に置いたランタンの灯り窓を小さくした。辺りが一層暗くなり、対照的に星空の輝きが増した気がする。

「君たちも座んなよ。長丁場だからね」

 青年は空を見たまま、毛布の傍に横たわる小さな折り畳み椅子二つを示す。ラピスとクエルクスはそれぞれ椅子を開いて立てると、青年の横に並んで座った。

 空一面に広がる星の煌めきは、よく見ると砂浜の砂のように色が少しずつ違う。瞬きながら鮮やかに色を変えるものもある。そして中には大きく光るもの、控えめに輝くもの、光の強さはそれぞれ違って、大小様々な粒子が天空を点描画のごとく埋め尽くす。

「よく見てごらん。今、空を支配しているのは春の星座だ。あの大きいの」

 青年が指差した先に、群を抜いて白く強く光る星がある。

「あの目立つのがスピカだ。あっちは南東の方角だよ。そして……」

 青年の腕が左の方へ弧を描き、ぴたりと止まった。その直線上に鮮烈な橙色に光る一点がある。

「牛飼い座のアルクトゥールス。これとデルポス」

 天空、高い位置へ指の先が動く。

「この三つを繋ぐ。春の大三角って呼ばれている。方位と星の位置は、まだ春のままだ。だけどね、今日は多分、変わるよ」

 いま指差してもらった星を無数にある光点の中から探し出すことすら難儀する二人にとって、青年の言葉は魔術の説明のように聞こえた。青年は、さて、と帳面を置いて書物を取り出し、挟まっていた栞を抜いて本を開く。

「ここから長くかかるからね。僕は本でも読んで待つけど、二人は寝ちゃってもいいよ。ことが始まりそうになったら起こすからね」

 そう言って視線を落とし、字列を追い始める。

 静寂に包まれた屋根の上に時折り風が吹き、丘の上から下界へ向かって流れていく。草花が風に撫でられ、さぁっと音を立てる。虫の音もほとんどしない。星々が語るかのように光が降り、時々青年が書物をめくる紙の音を除いて、耳に入る生命の動きがない静かな世界。

 青年はたまに書物から顔を離し、夜空を見上げながら鉛筆を動かすと、再び書物に目を落とす。その繰り返しだ。邪魔をするまいと、ラピスもクエルクスも言葉を交わすことなくずっと夜空を見ていたが、旅の疲れと共に睡魔に襲われ、ともすると瞼が閉じそうになったり首が揺れたりしていた。




「二人とも、始まるよ」

 青年の声でラピスははっと眼を覚ます。いつの間にか寝てしまったらしく、クエルクスの肩にもたれかかっていた。クエルクスも同じなのか、眼を擦っている。

 すっと背筋を伸ばして立つ青年は緊張した面持ちで、何かに身構えているかのようだ。

 待ったのは数秒か、数十秒か。

「それ」は不意に起こった。

 南の方角から旋風が空間を突き抜けた。ラピスの長い髪が風に激しく舞い上がる。毛布は翻って壁に当たり、硝子戸がカタカタっと小刻みに震える。

 一瞬の風だった。

 旋風に上っ面を撫でられた菜の花がさざめき、その音は南の方からあっという間に北へ抜けていった。三人の後方へ素早く遠ざかっていく草の揺れる音。それは瞬きの間に遠のき、再び静寂が戻る。

「ああ、やはりね」

 ラピスが突風に耐えられずにつむった眼を開けると、青年が晴れやかに微笑んで星空を見上げ、帳面の頁を次々に繰りながら鉛筆を走らせている。

「夏が来た」

 その言葉と同時に、空がたわんで歪み、大きくうねった。銀色の天が揺れ、星の光がぐわんと軌跡を描く。

「これは……」

「おっお兄さん、空が!」

 ラピスは思わずクエルクスの腕を掴んだ。

「よく見てなよ、季節の変わり目だ」

 空間が捩れて体ごと揺さぶられる感覚に気持ちが悪くなる。物理的な揺れはないのに、ラピスはクエルクスを掴む手に力を込める。

 さっきの旋風と同じく、一瞬だった。

 何かの力に縛られた体が解放されるのを感じて、恐る恐る上を見上げると、既に空には元の通り、星々が静かに瞬いていた。

「何が……起きたの……?」

 ラピスにもクエルクスにも、空には何の変化もないように見える。しかし青年は楽しそうに笑っている。

「これはなかなか、慣れないとね。空の配置が変わった。見てごらん」

 青年は東の方向、四十五度ほどの高さを示す。そこに煌々と輝くのは、先に見た橙色の星ではなく真白の大きな星だった。

「ベガだ」

 そして今度は、腕をずっと下の方へ下げていく。それを追って二人は眼を細めるが、真白のベガのように強く輝く星は見つからない。

「分かりにくいからね、左右に一つずつ。暗いけど、アルタイルが右、デネブが左だ。夏の大三角だよ」

 青年は至極当たり前のごとく述べると、帳面にシャッシャッと音を立てて線を引く。

「そんな、これが季節の変わりなんですか?」

「すごい、魔法みたい! 星読みって、本当に魔法みたいなのね!」

 にやりと笑う青年に対して、二者二様の叫び声が上がる。青年は感嘆を漏らし星々を仰ぎ見る二人を満足そうに眺めると、年長者らしく階下への入り口を開けて促した。

「さあさ、満足したら二人とも。明日出掛けるのに祟るよ。もう寝た寝た」

 そうして青年が二人を追い立てている、その時だった。

 上空から空気を切る音がし、何かと振り返るその間も無く一頭の大鷲が凄まじい速さで急降下してきた。驚きで固まったラピスをクエルクスが庇って上から抱く。大鷲は二人を目掛けて矢の如く近付き、クエルクスはラピスを抱いたまま転げるように階下への階段をなだれ落ちた。青年がその後に続いて飛び降り、鷲が屋内に突っ込んできそうになるすんでのところで戸を閉めた。

「クエル! クエルクス! 大丈夫なのっ⁉︎」

 ラピスを抱いたまま、クエルクスは飛び降りたその姿勢で廊下にうずくまっている。

「だい、じょう……っ……ラピス、怪我は」

「私はいいから退きなさい!」

「ちょっと見せてみろ」

 駆け寄った青年がクエルクスをラピスから引き離した。

「遅かったか……服が裂かれてる。部屋に戻って傷、確かめるぞ」

 青年がクエルクスの腕を自分の肩に回して持ち上げるのを見ながら、ラピスは細かい震えが止まらなかった。

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