第15話 星の転換(三)

 意識がはっきりしない。頭が重く、身体が熱を帯びて気怠い。瞼を開けても視界がぼやけて何があるのかよく見えない。

「クエルクス、起きたの? まだ熱が下がらないんだから寝てなくちゃ駄目よ」

 聴き慣れた声がした後に額に布が置かれた。冷たくて心地よい。クエルクスは布の重さに再び瞼を閉じる。すると意識はすぐに微睡みの中へ落ちていった。




 次に気がついた時、明るい白木の天井が一番にクエルクスの目に入った。自分の身体は綿織の薄掛け一枚で布団の上に寝かせられていた。着ていたはずの服の感触はなく、上半身には太い帯状の布が巻かれているようだ。窓が開いているのか、頰を生温い風が撫でる。湿気と熱を含んだ空気は盛夏のそれであり、上体に巻かれた布がじとりと汗を含んでいるのが背中に感じられた。

 ——ラピス様は。

 人気が無いのにぎょっとして飛び起きると、クエルクスはそこが自分達の泊まっていた宿の一室であることに気がついた。自分の着ていた合物の上着は丁寧に畳まれて寝台の脇に置かれた椅子の上にあった。その他の荷物も全て揃って床に並べられており、ラピスが来ていた旅用の上着も椅子の背もたれに掛かっている。

 机が寄せ置かれた壁の窓は開け放たれ、そこから入る風に吹かれて柔らかに波打つ垂れ幕の布端が、机上の帳面を撫でている。ラピスのお気に入りのその帳面は、中の頁が開いたままだった。

 クエルクスは寝台から降りて机に近づき、開かれた頁に書き付けを見つけた。

『食堂にいます。』

 斜めがちの文字はラピスの筆跡だ。眼が覚めてから初めて、クエルクスはゆっくりと安堵の息を吐いた。上着を掴んで袖を通しながら部屋を出る。

 廊下の木枠の窓は全て開いており、真昼の太陽の強い光が板張りの床を明るく照らす。眩しさに手で陰を作って外を見ると、菜の花で黄色一色のはずだった地面は青々と茂る草に覆われていた。本当に盛夏に変わったのだ。

 クエルクスは、星読みの夜に自分が大鷲に背中を襲われたところまでしか記憶になかった。無事かと自分に叫んだラピスの声は耳に残っている。背中に燃えるような強い痛みが走った気がするが、そのあとどうしたのか、全くわからなかった。

 徒らに記憶の端を探りながら歩いていたら、いつの間にか食堂に着いてしまった。朝食の時間はとうに過ぎたのだろう、洗い場からの水音も聞こえない。

 他に誰もいないせいかやけに広く感じる大部屋の中で、ラピスと星読みの青年が窓辺の卓に座って何やら話し込んでいた。入口側を向いて座っていた青年の方が先にクエルクスに気がつき、ラピスに合図する。

「クエルクス!」

 振り返ったラピスはそのまま立ち上がり、クエルクスに駆け寄ると上着の袖を引っ張って抱きしめる。

「うわぁやっと起きた! 背中は? 痛くない? もう意識は大丈夫?」

「うっ」

 正直なところ、ラピスの抱きしめる腕が強すぎた。

「『うっ』って、まだ痛い? ねぇクエル、寝てなくて平気?」

「嬢ちゃん、兄さんはあんたの腕が痛いんだと思うよ」

 青年が苦笑いしながら声をかけると、ラピスは「あぁっ」と小さく叫んでクエルクスから跳び離れた。ラピスが自分の袖を持ったまま跳び退ったのでクエルクスは前につんのめりそうになったが、何とか爪先を踏ん張って姿勢を保つ。

「大丈夫、もう痛みは無いですよ。それより、僕はどれだけ寝ていたんです」

「一ヶ月だよ」

 ラピスより前に青年が答えた。

「そんなに⁉︎ まずい、早く出発しないとっ……」

 信じがたい数字にクエルクスは全身の血の気が引いた気がした。まさかそこまで長い間、意識を失い床に伏していたとは。こんなところでぐずぐずしている時間はないのだ。一刻も早く、少しでも先に進まないと。

 驚きに眼を丸くし、荷造りのため大急ぎで部屋へと踵を返しかけたクエルクスの腕を、ラピスがちょっと待ちなさいよ、と引き戻す。何で止めるのかと、若干の苛立ちを感じて振り返ると、窓辺に座ったままの青年が笑いを噛みしめていた。

「お兄さん、あんまりからかわないで。クエルは真面目に取りすぎるから」

「は?」

「五日よ、五日。一ヶ月も寝ていたらその細い体が餓死しちゃうわよ」

 くっくっと声を押し殺して笑う青年を軽く睨んでラピスが訂正したが、それでも五日という時間はクエルクスにとって十分に衝撃的だった。

「それにしたってラピス、そんなに長くここに逗留する予定では」

「だって貴方の背中の傷、肉が見えるほどだったのよ。お宿のご主人がよく効くお薬を下さったから助かったけれど、高熱まで出てきてうなされて……怒ってるんだからね」

 口調はさほどではないが、ラピスの表情には深い心配の色が浮かんでいた。その性格を思えば、怒っていたという言葉の裏の意味もクエルクスには分かる。しかし護衛としてはむしろ不甲斐ない限りだった。

「まあ普通は傷だけならこんなに寝てなかったと思うけどね。見たところちょっとの外傷じゃ倒れないくらいは兄さん鍛えてるだろ。一応補足しておくけど、運悪く悪い菌が入っちゃったんもんで傷も塞がりにくいしすごい熱になっちゃったってわけ」

 青年は二人の様子を見ながら笑い顔で説明を加えた。察するに彼が色々と手配してくれたのだろう。クエルクスは青年に深々と頭を下げた。

「もう大丈夫のようです。ありがとうございます。本当にすまないことをしました」

 背中の傷は、ラピスの言う薬が効いたのか、今では傷跡が布に触れる時に少しばかり痒みのような違和感を感じるくらいで、特に痛みも気持ち悪さもない。

「とにかく、僕はもう大丈夫ですから、可能ならもう今日にでも発ちたい。馬車はまだありますよね」

「あるよ、昼過ぎに谷へ降りるのが。その前に兄さんはしっかり食事をとることだな。夢現で流動食なら口に入れていたけど、もう肉食べときなよ。あと、巻き布も換えとくか。汗で気持ち悪いだろ」

 言うなり青年は立ち上がり、宿の帳場に伝えにいくと言って廊下へ出て行った。クエルクスとラピスも調理場に早めの食事を頼むと部屋に荷物を整えに行った。再び食堂へ戻るともう食事は出来ていて、それをあと少しで食べ終わるという頃、外で馬車の車輪が道の石を踏みしだく音が聞こえた。

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