第8話 旅の一歩(四)
湯を使わせてもらって部屋に戻ると、すぐに先の若主人が呼びに来て、ラピスとクエルクスは食堂に通された。さっきまで木の目が剥き出しだった卓には格子模様の布が掛けられている。部屋には城の中の洗練された装飾や調度はないが、素朴ながらどこか落ち着く雰囲気があり、それがラピスの気持ちを和ませた。
席につくと、一度厨房へ引っ込んだ若主人が水差しと小麦を焼いた生地の乗った皿、黄金色に光る蜂蜜が入った小瓶、湯気を立てる椀を盆に乗せて運んで来た。
「わぁ!」
目の前に置かれた汁椀には人参や玉葱などの根菜がごろごろと入り、煮込まれて薄く透き通るそれらの野菜と上に飾られた香草の香りに、ラピスは歓声を上げた。若主人はラピスが眼を輝かせる様子を見て満足気に焼いた生地を切り分ける。
「城の食事とは違うけど、負けない味は保証しますよ」
「香りだけでもすごく満足! 嬉しいっ」
それは良かった、と若主人はにこやかに笑い、ラピスの右側に切り分けた生地を乗せた皿を置く。
「普段の宮廷の食事はもっと繊細でお上品かもしれませんけど、こういうのも悪くないんじゃないかと」
ラピスが汁を静かに啜ると、口の中に野菜の甘みが広がり、炒めた肉の旨味がじんわりと感じられる。根菜は噛めばほろりと崩れ、喉を通って全身を温めた。
「ううー美味しいっ。こんなのだったら毎日食べたいかも。あ、そういえばいま、ちょうど調理場が募集をかけていたと思うの。どう?」
「はは、転職しますか」
ラピスが上目遣いをしてみせながら言うのに、若主人はおどけて指を鳴らした。そんな二人を眺めていたクエルクスは匙を持ち上げたまま呟く。
「確かに、一発で受かるかも……」
「なに言ってるのよクエル、冗談よ、冗談」
二人が「クエルは真面目なんだから」、「全くだ」とからかい気味に言い合うのをよそに、クエルクスはじっと汁椀に目を落とした。他の料理の続きがあるから、と若主人が再び厨房の方へ姿を消すと、ラピスは満面の笑みで生地を千切って口に放り込む。
「やっぱり動き回った後はあったかくて美味しいご飯が一番ね。この生地もふかふかで小麦が甘くてもう。ねぇクエル」
呼びかけられ、クエルクスは一瞬の間をおいて笑みを作った。
「グラディ……ああ、彼の名前ですけれど、昔から料理好きでしたよ。リアでもしょっちゅう市場に行くのに付き合わされました」
「まさかクエルにこんなところの友達がいるなんて。聞いたことなかったわよ」
「真面目で、なにしろ腕が立ちますから。最初の投宿には最適でしょう」
ことに姫様の旅とあってはね、と加えたクエルクスに、ラピスは汁を掬う手を止める。
「それなのだけれど」
急に口調をあらためて切り出すラピスの様子に、クエルクスも椀を置いた。
「クエルクス、旅の間は私に敬語を使うのをやめた方がいいと思うの。普段だって別に敬語を使われることはしていないけど……この旅は身分を伏せて行くでしょう。だったらなおさらよ。明らかにクエルの方が年長なのに、私に様付けするとか変に思われるでしょう」
ユークレースの姫が一人で旅をしていると知られるのは外交的にも好ましくない。ユークレースに変事あり、としてその機につけ入られる可能性も皆無ではないのだ。肖像画で他国に顔が広まっていないとはいえ、どこで誰が何を耳にするか分からない。姫という立場を隠していく以上、あくまでも二人の関係も分からないようにするべきである。
とくとくと提案するラピスだったが、クエルクスが呆けた顔で自分を見ているのに気がつき、首を傾げる。
「なに?」
「あ、いや……」
その顔は表情の変わりにくいクエルクスには珍しく、驚きが露わである。
「従者の身での提案は失礼ながら、やはりそのことを御注意しないと、とちょうど思っていたのですが……ラピス様がそこまで考えていらっしゃるとは……」
「もう失礼ね」
本気で意外に思っているらしい従者を睨んでみせて、ラピスは芝居がかって匙を突きつける。
「そのくらい承知しているわよ。一国の姫たる自覚くらいあるわ」
手に持った匙を貴人らしからず行儀悪く宙で左右に揺らしながら、一国の姫は提案を続ける。
「私のことはラピスと呼んでもらえばいいわよね。別によくある名前だし……偽名を考えてもいいけれど。私はクエルと呼べばいいのかしら。それともクエルクス?……どっちでもいいか。問題は私達をどういう関係にするか、なのよねぇ……」
「はぁ……」
さすがに従者と女主人、というわけにはいかないだろう。かといってその逆も、年若い二人連れにしては不自然だ。ユークレース及び近隣諸国では、主従関係にある二人が旅行といえば、もっと年長の者たちが行うのが普通だった。
「クエルの方が歳上に見えるわよね」
「実際そうですし、落ち着き無い姫様なので逆は不可能ですね」
「普段からそうだけれど、あなた言いたい放題ね……あっそうだ」
閃いた、と匙を置く。
「兄妹、かな。となると、『兄様』?」
自分の思い付きがよほど名案と思ったのだろう。嬉々として言われた言葉に、クエルクスは持っていた匙を落としそうになる。
——……兄妹……
脱力して食欲が一気に落ちたところ、次の料理が机の上に差し出された。皿の中央に炙った魚が乗り、まだじうじうと油の踊る音がしている。その周りには網焼きにした野菜が彩りよく並べられ、甘い香りのするたれで飾られていた。
「うわあ、なあにこれ美味しそう!」
「川で獲れたばかりの山女魚だ。よく太ったのが釣れましてね。こいつは塩と山椒で」
「こっちの野菜は?」
「魚の塩を強めにしてあるから塩味は付けてない。むしろ塩味を和らげるのに葡萄酢をちょいと」
感動に顔を上気させる客に、グラディと呼ばれた主人は雄弁になる。二人は意気投合して料理談義に華を咲かせ、クエルクスの落胆は川魚と野菜の存在感に負けて気付かれることすらなかった。器用に取り分けられた山の幸に五感全てを魅了され、ラピスは満面の笑みで食べ始める。クエルも冷めるよ、とか、俺の料理を最高の状態で食え、とか二人に急かされて、クエルクスは溜息をついて食器を取り上げたのだった。
——確かに美味いし。
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