第6話 旅の一歩(二)

 染料に浸けられた布が端から段々と染め上がるように、波の静かな水平線の際、白んだ空が薄く金の色を帯びていく。その中心に力強い発光源が浮かび、一面に眩い光線が迸る。

 日の出と共に、ラピスとクエルクスは城門を後にした。

 馬の背の前方にラピスが乗り、後ろのクエルクスが手綱を握る。栗毛の馬はクエルクスが日頃乗り慣れている数頭の中でも丈夫であったし、ラピスにもよくなついていたので二人乗りには最適だった。ラピス自身も乗馬の心得はあるが、狭い道や獣道を行くとなった時に二頭だと進みにくい。またクエルクス一人が護衛を務める以上は、二頭だてより一頭のみで行く方がラピスの盾となって守るには有利だ。

 春の朝は冷える。軽い上着を羽織っているが、頬に当たる冷気が少し痛い。

「今日はリノを抜けるところまで行きます。旅程の始めのうちならまだユークレースの領内なので多少の融通も利く。無理なさらずに、仰ってください」

 リアの隣州であるリノは、半島の中ほどに位置する。クエルクス一人ならさらに隣の州くらいは超えられようが、ラピスが一緒の旅とあれば加減して行かないと後がもたないと考えた。ラピスも王が健康な頃は近隣ならしょっちゅう父について出かけていたが、さすがに二人乗りでの騎乗の遠出は初めてであるし、本当の長旅という目で見れば、王女であるラピスの経験など旅慣れた範囲に入らない。ラピスも己の体力の程が分からないほど愚かではない。逸る気持ちはあれど、クエルクスの練った旅程に同意した。

 王都の中の舗装道路は徒歩で行き来する市民も多いため、早駆けは出来ない。徐行で進んでいると、二人をよく知る市民が気軽に声をかけてくる。

「姫様、今日は遠出ですか?」

「うん。せっかくのお天気だから。このところ城にいることが多かったし」

「クエルクス、散歩なら焼き立ての生地があるから持ってくか? 今日は塩漬けの実を包んだのがよく焼けてるよ」

「貰っとく。姫様よく食べるし。僕のお昼無くならないように」

「ちょっと好き勝手言わないでよ」

 王女が留守にするというのを国民に伝えるかどうかは、議論の末に控えることになった。平和な国内だけなら情報を開示しても問題なかろうが、隣国となると話は別である。普段は友好関係にあると見えても、いつ何時、弱みにつけ込まれるか分からない。国王の病状の悪化やそれに関連した王女の不在が知られるのは得策ではない。隣国に伏せるためには国民に対しても黙していた方が安全である。これが宰相の言い分だった。

 そのようなわけで、市民も二人がよもや国外へ赴くとは知らないのだが、日頃より頻繁に城下に出ている二人ゆえに、不審に思う者もいなかった。

 ただあまりにも二人が市民と慣れ親しんでいるため、あちこちから呼びかかる声や、「ひめさまー」と駆け寄ってくる子供達に時間を取られてしまったのも確かである。

「ひめさまひめさま、久しぶりっ! おはようっ!」

 ラピスが顔馴染みになっている菓子屋の子供も、はしゃぎながら寄ってくる。馬が怖いのか、少し遠巻きに呼びかけるのだが。

「おはよう、早起きだね。お手伝い?」

「うんっ! ねえねえひめさま、どこ行くの? なんでお馬なの? とおくに行くの?」

「街の向こうの林よ。今は花が綺麗でしょ」

「熊さん出るからこわいよ」

「怖くないわよ。クエルがいるもの」

頷きながら、「そっかぁ、クエルクスいればだいじょぶだもんね」、と安易に納得してくれた子供に内心感謝しながら、それじゃあね、と手を振ってやる。そうこうしているおかげで、林まで来る頃にはもうすっかり日は昇り、もうすぐ林を抜けようという時には昼過ぎになってしまっていた。

「そろそろ食事をとっておきましょうか」

 リノとの境もすぐそこという林の出口近くで、クエルクスが馬の足を緩めた。木々の生い茂る中に開けた場所があり、頭上では枝葉が大きく分かれて青空が見える。

「リノは栄えていますから、道端にゆっくりできるところを見つけられるかわかりませんし。やたらに姫様のことを探られても面倒ですからね」

「こんなにご飯、貰っちゃったものね」

 ラピスも籠盛りになった果物や焼いた小麦の生地——城下の人々が我も我もと二人に持たせてくれた食べ物を抱えて苦笑した。

 木々が間を開けた空間には座るのに手頃な切り株もある。クエルクスは馬を止めて白樺に手際良く手綱を結びつけると、水を汲んでくるからと、ラピスを待たせて木々の間へ走って行った。

 林の中には葉を透かして木漏れ日が降り、強すぎず柔らかな光が辺りを照らす。時折り風が吹いて枝を揺らし、葉ずれの音が鳥の囀りと混ざって鼓膜をくすぐる。ラピスは目を閉じて深呼吸し、切り株に座って辺りの音に耳を澄ませた。

 ふと、鳥達の会話が止んだ。

 突然、静寂が体の周りを支配した。違和感を覚えて閉じていた瞼を開ける。

目の前にいたのは、ラピスの体格を超える大熊だった。地に着いた前足の美しい黒茶の毛並みの下に、鋭い爪が見える。熊は鳴き声を漏らすこともなく、ただラピスと対峙していた。熊の顔には長い毛がかかっているが、その中に埋れていてなお、両の瞳がぎらりと光っているのがわかる。

 下手に動き抵抗すれば、爪がラピスの体を衣ごと裂くだろう。

「クエル」

 熊を刺激しないよう、囁きほどの声で呼ぶ。林の奥で、下草を踏む音が聞こえた。今度ははっきりと聞こえる大きさでその名を繰り返す。

「クエルクス」

 次の瞬間、ラピスと大熊の間に人影が飛び出し、ラピスを背の後ろに隠してクエルクスが熊の前に立ちはだかった。剣の柄に手をかけてはいないが、その姿勢は僅かな動きで踏み込みの体勢に移れるものだ。

クエルクスは無言で熊の瞳をひたと見つめ、しばしそのままの状態で時が流れた。

 熊が低く唸り声を漏らした。それを聞き、クエルクスが身体の緊張を半ば緩める。

「姫様、食べ物をいくらか。彼は空腹のようです」

 クエルクスは熊を見つめたままラピスに呼びかけ、後ろに手を出す。ラピスはすぐに町人達から貰った木の実の包み焼きと苺をクエルクスの手に渡した。

 受け取った食糧を熊の前に置いてやると、熊は器用に喰わえ上げ、のったりと踵を返して木々の奥へと戻っていく。その後ろ姿が繁る葉の向こうへ見えなくなると、ようやくラピスは深い息を吐いた。

「良かったぁっ……クエルがあまり遠くに行ってなくて」

 腕を上げて強張っていた体を思い切り伸ばす。その呑気な主の様子もいつものことで、クエルクスもさっさと川の水を汲み入れてきた水袋を切り株に置き、食事の用意を始めた。

「早く食べてしまいましょう。ほらラピス様も手伝ってくださいよ」

「うん、ごめん」

 荷袋から布巾と兵の使う野営用の器を取り出し、残った果物と野菜、こんがりと焼けた小麦の生地を並べていく。

「ねえ、あの熊さん、ご飯って?」

「ああ」

 手を休めず、クエルクスは熊に聞いた返事をそのまま答えてやる。

「朝からうまいこと食べ物が手に入らなかったところ、いい匂いに惹かれてこちらに来てしまったとのことでしたよ。空腹の熊に刺激は厳禁ですから、すぐ呼んでくださって良かった」

「そっか。もっとあげれば良かったわね」

 ラピスは従者の答えに苦笑する。何しろ両手で抱えるのがやっとというほど籠いっぱいに詰め込まれた土産は、二人分には多すぎる。

 漆黒の髪を持つ青年は、古には魔法が使えた一族の末裔だという。

 今は、魔法の力は残っていない。ただ、一つだけ凡人に無い能力がある。

 その耳は、獣の語を解し、自然の中に生きるものたちと意思の疎通が出来るのである。

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