旅の一歩

第5話 旅の一歩(一)

 そもそも二人だけでの旅行であって荷物も少ないため、荷造りにもさほど時間はかからない。出立の準備は速やかに行われた。最低限の旅行道具を整え、馬を決め、留守中の政務に関していくらかの確認と連絡を行えばもう、城を発つ手筈はほとんど整っていた。

 国王へラピスの旅を告知するのは敢えて間際まで待たれた。心身共に衰弱している状態で、最愛の我が子との別離が辛くないはずがない。十中八九、一度は止めようとするだろう。しかし国王の病状を見ればこそ、他に選択のない決定なのだ。その心情を思えば多少酷ではあるが、出立の前日、国王がいくらか体調も良くなっている時分を見計らって、落ち着いた状態で事の次第が伝えられる予定だった。

 しかし天候不順がまたも国土を襲った。出立前々日の深夜、突発的な嵐が起こったのである。南方からくる春嵐は本来、春の始まりに起こるはずだ。それなのにもう数ヶ月春が続いた今となって、旋風が城の玻璃の窓を激しく叩き、木々を唸らせながら城下に吹き荒れた。

 翌朝には穏やかな陽光が街を包み、そよ風が花々を揺らす晴天になったものの、気圧の変化に国王は頭痛を訴え、床から起き上がれなくなってしまったのだった。結果としてラピスは、横になったままの父に自分の旅立ちを伝えることになってしまった。

 予測通り国王は反対した。病である自分が原因で愛娘が無事の保証されない旅へ出立するなど、到底納得できるわけがない。そのようなことをする必要はない。思いとどまらせようと、国王は説得を続けた。

 しかしラピスは頑として聞かず、行くの一点張りで一歩も引かなかった。こうなると誰が何を言おうと——クエルクスであろうと——ラピスの気持ちを変えることはできない。それは父である国王が最もよく知っていた。

 しばしの押し問答の後に、国王はついに首を縦に振った。

「大丈夫。私が強いのは知っているでしょう? すぐに戻ってくるから、それまできちんと女官長と医師の仰ることを聞いてね」

 明るく諭す声は、幼少の頃から全く変わらないように聞こえる——父である王の耳に届く響きは、まだあどけない少女の頃の娘を思い出させた。自分のために危険な目にあうのでは、と考えれば心臓が潰れる思いだ。外へなど行かせずに、ずっと美しい海の見える平和なこの王城にいて、幸せな時だけを過ごして欲しい。

 そう思って我が子を見ると、もう抱き上げて慈しんだ幼な子ではない、美しく育った娘がそこにいる。背筋を伸ばして向き合う姿に、愛した妻の顔が脳裏に蘇った。自由を尊び、王である自分に対しても信条を貫き、優しくも気高く凛と立っていた妃。

 その女性を思い出せば、疑問も浮かぶのだ。病に伏し、あとは死にゆくばかりの自分の側についたきり、王城、王都の外を知らぬままで、娘は一体なにを得られるのかと。

 やはり父として、娘が自分を思うがゆえに城の中に閉じこもり、若者にしか許されぬ限りある自由な時間を無為に過ごして欲しくもない。

 娘の白い手を握って、柔らかな髪を撫でてやる。

「行って国の内外、多くのものを見て来なさい」

 間も無く自分の命が切れるなら、娘が次の為政者となる日も近い。その時に諸外国との円満な関係を築き、自国の安寧を守るには、書物の中に無いことからの方が学ぶところは大きい。そのかけがえの無い経験が出来るならば、もう長くはない者の体を気遣って狭い城内にいるよりも外に出て世界を見た方が良い。

「ただし、背伸びしすぎてはならない。多少の無理なら勉強になろうが、無茶はやめなさい。私のことなどはいい。私のためだと思って進むのはよして欲しい。己がために世界を見るつもりで。しかしね、もし本当にお前自身の身が危険になったなら、帰路につきなさい」

 前の言葉が為政者としての矜持を教えようとするものなら、いまの言葉は親として言わずに見送ることはできない言葉だった。

 常に明るい娘は、母に似た瑠璃の瞳を瞬き、大きく頷いた。

 その後、宰相から国王へ、ラピスとクエルクスの旅程が予測できる範囲で伝えられた。王の負担になっては良くないということでそれもほどほどに切り上げて、三人は廊へ出る。白亜の壁を夕陽が朱く染め上げ、埋め込まれた宝玉が光を乱反射して美しい。ラピスにとって、絵のようなこの城の情景をしばらく見られなくなるのは、やはり切なく感じられた。

「明日の朝は早い。ラピス様も今日はもうお部屋に戻られて、十分にお休みください」

「ありがとう、そうする。じゃあ、お休みなさい。クエルもちゃんと寝てね」

 そう言ってラピスは、次にいつ眺められるか分からない渡り廊下からの夕焼け色の海を見に、南の塔へ踵を返した。

 駆け去るラピスの軽い足音が遠のくのを待って、宰相も執務室のある中央棟へ体を向ける。自分も自室へと足を踏み出した青年の肩越しに、低い声が掛けられた。

「いいか、クエルクス」

 振り向かぬままの背に、言葉が続いた。

「道中、二人きりだ。くれぐれも妙な気を起こし、手を出すなよ」

「……承知しております」

 その返答を確認して、宰相の高い足音が後方へ去って行く。

 入れ替わりに、潮騒の音が海風に乗って鼓膜に入り込む。

 常ならば気を安らげるはずのその音が、煩い。

「……この……っ……」

 鼓膜を、いや、胸をざわめかすのは、宰相の言葉か、ラピスの笑顔か、それとも己が葛藤か。

 くすぶるものを打ち消すように、廊を急いだ。

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