第42話 秋の神域(二)
その大樹は、いままで見たどんな木よりも美しかった。
垂直に伸びた幹は途中で分かれ、しなやかな曲線を描きながら左右へ伸びる枝は、燃え盛る炎と見紛う鮮烈な黄の葉で覆われている。雄々しく茂ったそれらは見上げる限り空間を埋め尽くし、それにも関わらず枝葉の下は僅かの影もなく輝き渡る。
その原因は、枝を覆って広がる葉の下に生った果実だった。
両の手のひらに包み込めそうな大きさの、丸みのある輪郭をしたその実が、目を瞑りたくなるほど強い光を放っているのである。
まるで太陽の光を宿したかのような黄金色。
伝説でしか知ることのなかった、奇跡の林檎。
荘厳たる輝きに、ラピスは息を呑んでその場に立ち尽くした。頭のどこかで「実を取らなければ」という考えがよぎるのに、地面に足が縫い取られているように動かない。震えすら起こらず、経験したことのない衝撃に自分の四肢の先までが止まって動けない。
それほどまでに、目の前にある果実は美しかった。
どのくらいそうしていたのか。ふっと、横にいたクエルクスが僅かに身を動かし、それを感じてラピスの体からも見えない枷が外れた。そして自分と一緒に大樹の上を見上げていたはずのクエルクスの顔が、いまや前へ向けられているのに気がつき、同じ方へ首を巡らす。
クエルクスの目線の先を辿ったラピスの体が、今度はびくりと震えた。
そこにいたのは、戸愚呂を巻いた大蛇だった。
大樹の根元で、黄金の林檎の輝きを受けた滑らかな銀色の肌が光る。長く上に伸びた首の先で、赤銅(あかがね)色の眼がこちらを見ている。
——外客か。いつぶりに見るだろうな。
大蛇は微動だにせず、悠然と述べた。拒絶も歓迎も感じられない、感情の欠けた声だ。クエルクスは一歩、ラピスの前に進み出た。
「勝手に入ることが禁忌ならば、それには詫びを申し上げる。ただ、誤解しないでいただきたい。神の聖なる地を侵すつもりはない」
——さりとて、人の子が神の地になぜ踏み入れた。
「それは……」
「ラピス? 聞こえるんですか?」
呟き声を耳にしてクエルクスが振り返る。ラピスは頷くこともできず、蛇の目に捕らわれて視線を逸らせなかった。大蛇の口は閉じたままで、獣の声は発していない。それなのに重く低い声が脳内を揺るがすように響いてくるのだ。
——煩悩にまみれた輩か? 理由なく来たれり愚か者か?
「理由ならございます!」
自分の前にクエルクスの腕が庇うように出されているのを押し下げて、ラピスは踏み出した。
「わたくしの父を病から救いたいのです。限りある寿命に従うべきわたくしたち人間には分不相応な願いかもしれません。しかし父は人を愛し民を助け、わたくしの知る限り我欲に溺れたことはございません」
腹に力を入れ、震えそうになるのを堪えて足を踏ん張る。
「どうか、聖なる林檎の力をお借りしたいのです! 女神様の恩寵を願いますことは、お許しいただけないのでしょうか」
ラピスはクエルクスの手を握り、赤銅の目をひたと見つめて言い切る。すると大蛇は、微かに首を斜めに傾けた。
——ほう……面白い。加護を受けた者か。
脳裏に響く声には愉悦が滲み、かと思えば先よりも決然とした調子で意識に語りかけた。
——奇跡の果実を守るは愛を司る女神よ。そなたたちが誠の心を示し、それが主人(あるじ)の意に適えば、神々は恵みを与え慈しみ、守りもしよう。されど主人に背いて誤った扱いをすれば、女神は鬼神に変わり、彼の怒りが劫罰を与えると心せよ。それでも果実を望むとのたまうか?
「はい」
迷いなく答えたとき、ラピスの体から震えは消えていた。姿勢を正し、大蛇と相対する。
「この命に誓って申し上げます。女神様から目を背けなければならないようなやましいことは、まったくもってございません。もし父を想って林檎を使うことが罰に値すると言うのなら、わたくしはその罰を受けましょう」
芯のある声が空気の中を突き抜ける。ラピスの瞳の中に怯えはない。
——よかろう。
手招くように、大蛇は大きく、ゆっくりと首を回す。
——ならば、こちらへ参れ、そなたが穢れを知らなき乙女であり、女神の試しを受けようというのなら。
ラピスはごくり、と唾を飲んだ。握りしめていたクエルクスの手をそっと離し、地面の感触を確かめながら、一歩ずつ足を踏み出す。
すぐそばにあるはずの大樹までが、ずいぶん長い距離に感じられた。
黄金の林檎は、自分の頭より少し上のところで、枝に茂る葉に守られて眩く輝いている。
そろそろと伸ばした腕が、光の中に入って黄金の色を纏う。少し背伸びをして手のひらを広げれば、艶やかな果実の面が、まるで果実の方からこちらへ寄ってきたかのように、すぅっと肌に吸い付いた。
——さあ、取るが良い。人の子よ。
ラピスは光に隠れた指の腹に力を込め、黄金の果実をもぎ取った。
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