第43話 秋の神域(三)

 瞬きの間も無かった。

 果実を両の手に包んだ瞬間、地に触れている感覚が足の裏から失われ、ラピスの身体が宙を泳いだ。

 地面が揺れたのか、それとも大樹が揺れたのか、いずれにせよいまの今まで見ていた世界が上下左右の位置関係を視界の中で崩した。

 だがその浮遊感もまた一瞬で過ぎ去り、すぐに体がしっかりとした支点を取り戻す。

 駆け跳んでラピスを片手に抱え上げたクエルクスは、足が地に着いた弾みを使ってそのまま大樹から飛び離れた。

 視界の端に入った大蛇の目が、赤みを増して光ったように見える。

 風が唸るような音が鼓膜を支配する。大樹が幹を大きく震わせ、枝葉がしなってところ構わず宙を打つ。それらを危ういところで躱しながら、クエルクスは剣に手を掛けた。

「だめっ!」

 林檎を右手に預け、ラピスは左手でクエルクスの腕を力の限り抑える。

「ここは女神様の神域よ! 何も傷つけちゃだめ!」

 クエルクスは顔を歪めたが、すぐに柄を手離して横に跳んだ。触手の如くこちらへ迫っていた枝葉はぶつかるところを逃し、繁った葉が空中でばさりと音を立てる。

 ——行(ゆ)くがいい、この林の外へ出てみるがよい。

 後方からまだこちらへ向かって大樹が襲いかかってくる気配がする。クエルクスの腕から降りたラピスは歯を食いしばって地を蹴り、その後ろを守る形でクエルクスが続いた。だが枝葉の勢いは増すばかりで、いくらもせぬうちに黄金の葉が自分たちの方へ近づいてくるのが視界の隅に入った。

「ラピス、早く!」

 葉先がすぐ触れる位置まで迫ってクエルクスが叫んだが、ラピスは後ろを振り返ったことで均衡を崩し、足がもつれて転んでしまった。咄嗟にクエルクスがラピスの上に屈んでその身を覆う。体が衝撃を受けるのを予想し、二人は目をつむった。

 だが次の一瞬、高く澄んだ声が林の中を突き抜けた。

 そして強張らせた肩に衝撃はなく、近づく葉の気配も無い。

 ——……小生意気な。護り児か。

 大蛇の声に恐る恐る目を開くと、ざざぁと音を立てながら枝葉が一様にラピス達から離れて大樹の方へ戻っていっていた。それらの間から、木の下(もと)に泰然と構える大蛇の姿が見える。

 ——ならば見せてみよ。女神の果実を持ち帰り、己が想いを試すがよい。神が罰と恵みと、どちらを与えるかを……

 頭が割れると思うほどの痛みを伴って、蛇の嘲笑いが頭の中に響き渡り、二人は堪らず耳を塞いで目を閉じる。笑い声はしばらく続いたが、やがて小さくなり、ついには聞こえなくなった。そして再び瞼を開いたとき、黄金の大樹はもはやそこにはなく、禍々しく光る大蛇の赤銅色の双眼もない。あるのは光る道標を見る前に自分たちの前後左右に広がっていたのと同じ色づいた木々だけであり、隙間から黄金の光が漏れることすらも無かった。

 何秒か、それとも何分もの間か。ラピスは地面に座り込んだまま身動きが取れなかった。しかし徐々に意識がはっきりとし、五感が大蛇を見る前のように整ってきた。

 ただ、胸に押し当てた果実の感覚は、ここに来る前には無かったものだ。

 そっと腕の中を見ると、そこには確かに光が溢れ、艶やかな黄金色の果実があった。

 ユークレースを出てからどんなに経ったか。心から欲し、手にするのを望んだ果実が、いまやっと自分の腕の中にある。

 ——これがあれば、父様を助けられる。

 ユークレースにも、他のどこにも、父を救える手立てはなかった。女神の力を宿した果実。これが唯一の希望なのだ。

「助けてくれてありがとう、クエルクス。さあ、帰りましょう!」

 安堵と喜びが全身に満ちていくのを感じながら、ラピスは勢いよく顔を上げた。

 しかし、自分と同じに喜んで同意を返してくれるはずの声はない。代わりにラピスが目にしたのは、見たこともないほど険しいクエルクスの表情だった。逃げ惑い、死に物狂いで駆けたあとだと言うのに、黒髪の下の肌はいつも以上に真っ白である。

 クエルクスは口を開きかけ、また閉じて、唇を噛む。そしてなおも黙したまま、しばしの時が流れた。

 そしてようやく、こちらを見つめる瞳は微塵も動かないままに、色素の薄い唇だけが微かに震えた。

「……ラピス様……帰っては、いけません」

「クエル?」

 妙だ。言っていることだけではない。目の前にいるのは、ラピスが知る彼ではない。

「帰れば、貴女は……殺されます」

 声は聞き取るのがやっとであるほど小さいのに、紡がれる言葉に揺らぎがない。

「何を……言うの?」

 黒鳶色の瞳がラピスを見下ろし、体を地面に繋ぎ止める。長い沈黙に圧迫されるように、息がつけない。

「僕が受けた命は」

 あたりに氷が張っていると思うくらい、空気が冷たく感じた。

「秋の国で、ラピス王女を亡き者にすることです」

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