第44話 秋の神域(四)

 自分を見つめている瞳が、自分の知らない冷たい色をしている——そう、ラピスには見えた。

「僕が宰相にラピス様の供に付けられた目的は、姫を秋の国まで到着させ、そこで息の根を止めること——」

 人智の及ばぬ未踏の地だ。秋の国で何が起ころうとも、それは全て事故になる。だがその前にことを起こしてしまえば、下手人が誰かは明らかだ。

 ——いいか、クエルクス。

 耳の奥にまだ残っている。

 ——くれぐれも妙な気を起こし、手を出すなよ。

 夕暮れに染め上げられた城の床が、禍々しい業火に見えた。

 この身がここで朽ちてしまえばいいと、願った。ラピスの姿が視界に入るのすら耐えられず、瑠璃の瞳から目を逸らす。だが獣の言葉を解する鋭敏な耳は、クエルクスの意図に関わらず微かに発せられた問いも捉えてしまう。

「……では、パニアも?」

 クエルクスは頷いた。

「恐らくトーナのことも、初めから書状などなかったのでしょう」

 そう、という嘆息には、驚愕や狼狽は無かった。ただ、「貝の矢尻はそういうことだったのね」と、誰にともなく確認するように呟く——貝の矢尻。内陸のパニアには珍しい、ユークレースの部隊がよく用いる武具だ。

 再び、葉のさやぐ音だけが空気を揺らす。枝から離れた紅い葉がひらひらと宙を浮遊し、ゆっくりと回りながら降りてくると、ラピスの足元を埋める黄色い葉の上に重なった。

「クエルクスはいつ、その命令ことを?」

「……陛下に、出立を申し上げに行く前日です」

 娘の出立を聞いて猛反対し、それでも国王が承諾したのは、娘の無事の帰還を信じたからだ。だがこのまま帰れば、もっと王の意に反することになる。

「いまなら……いまならばまだ間に合います。ラピス様、トーナ女王の庇護を受けるか、さらに先へ足を伸ばすか、ともかくもユークレースに気付かれないところへ身を隠してください」

 何も明かさず、何も知らぬふりをして、ここまで欺いてきた。その自分にこんなことを言う資格はない。真実を告げれば、きっとラピスは自分から離れていくだろうと恐れた。それならいっそ身を滅ぼしたかった。侮蔑され、恨まれ、憎まれて当然だ。それでも——彼女をこの世から、失うよりは。

「クエルクス。一つ、聞くわ」

 寸分の揺れも無く呼ぶ声。そこには、驚きも、怒りも、蔑みもない。

「なぜ、秋のここに来るまで話してくれなかったの」

 ほかのどんな感情もなく、ただただ自分に問う。返答を余儀なくさせる澄み切った音。

 毅然とした様は、ユークレース王によく似ていた。常に慈悲深く、臣下と民を一番に考えた王。国を愛し、家族を愛した主君。王の病の原因が、その人となりを証している。

 言い逃れも何も、できるはずがない。

「……もっと早くに、このことを申し上げるべきでした。そしてこんなところまで来ず、貴女を安全なところへ逃すべきだった。どんな罰も受けてしかるべきです。どんな罰でも受けます。でも、ただ……ただ、奇跡の林檎だけが……」

 言葉が途切れ、先が続けられない。

 騙すような形でここまで来ておいて、果実が手に入ったところで帰るなと言う。自分ですら滅茶苦茶だと思うことが、言い訳以外の何に聞こえるのか。

 下を向いたまま口をつぐんだ自分を、ラピスが見ているのが分かる。だからこそなおさら顔を上げられない。

 耐え難く長い沈黙が続いた。

 するとふと、頬にそっと柔らかなものを感じた。

「ありがとう」

 目の前に、穏やかなラピスの顔があった。地に膝をついたラピスが、両手でクエルクスの頬を包んでいた。

「父様のためを思ってくれたのでしょう」

 クエルクスの瞳が見開いたのを見て、ラピスは、「ほら、ね」、と微笑む。

「父様の病を救えるとしたら、可能性は女神様の林檎だけ。奇跡の果実を手折れるのは、穢れなき乙女でなければならないわ。でも林檎を手に入れることが出来たのは、クエルがここまで連れてきてくれたからよ」

 驚き、固まったクエルクスの顔を上げさせ、ラピスはふふ、と笑った。

「私を逃したい。だからいま言ってくれたのでしょう? でも父様を救いたい、そう思ってここまで悩んでいたのでしょう? それに、宰相家族のことだって。だってクエルクスは優しいもの」

 わだかまる思いを言葉にされて、クエルクスは胸の内でもつれたものが一瞬にして解けた気がした。

「昔からそうでしょう? 私、クエルクスのことは言葉を聞かなくても分かるのよ」

 自信と優しさに満ちた少女の佇まいに、かつて魔法使いの末裔が駆逐されようとしたとき、自らの一族を前国王から救い、自分を息子のように扱ってくれたユークレース王の姿が重なった。


「それにクエルクスは、どこにいようと、私の味方でいてくれるのでしょう」


 秋の国に入る直前、ヒュートスに言われたことを思い出す。その時には糸より頼りなく、望み得ないことだと感じた。だが、目の前の少女の笑顔は嘘偽りでありようがない——曇りのない瞳は、ヒュートスの言葉が正しかったことを証明している。

 ——まったく……

 ふっと、我知らず笑みが溢れる。

「本当に……敵いません、ラピスには」

 するとラピスの瞳がぱっと輝いた。

「やっぱりそっちの呼び方の方がいいわ。まあ結局、クエルの敬語遣いは崩れなかったけど」

 人差し指を立てて冗談めかして言うと、ラピスはすぐに真顔に戻った。

「クエルクス、もう一つ聞くわ」

 色付いた紅葉が、ラピスの後ろでゆったりと舞い落ちる。

「これから先も、私を守ってくれる?」

 女神が守る、神聖な場所。ここではどんな嘘も誤魔化しも許されない。

 クエルクスは、ユークレースの国章が刻まれた剣の柄を握りしめる。

「——はい」

 旅の初めから、それだけは変わらない。自らが真に望み、この身にかけて誓ったこと。

 するとラピスは立ち上がって服についた土を払い、改めてクエルクスの方を見た。

「じゃあ、帰りましょ」

「はっ⁉︎ だから貴女の身が」

 驚愕したクエルクスとは反対に、ラピスは上を見上げて「んーと」と考えてから、だって、と平然と続ける。

「私もクエルクスも父様を救いたい。クエルは私を死なせたくない。私も死にたくない。そして」

 ラピスは言いながら、白い指を一つ一つ折っていく。


「クエルクスは、どこにいようと、私を守ってくれる」


 旅の中で何度も口に出し、繰り返し立てた誓い。

「だったらやることは一つじゃない」

 瑠璃色の輝きは強く、そこには疑いも、迷いもない。

「帰りましょう。ユークレースへ」

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