第12話 獣の咆哮(四)

 狼に助けられる形で森を抜け、その勢いのまま野原を越えた先のヴェントの最初の町まで来た二人は、早々に宿を見つけると、あまりの疲れに食事も忘れて寝入ってしまった。

 夢の中で自分の胃が空っぽなのに気がついたのか、翌朝は日が昇るとすぐに二人揃って起きてしまった。旅人の多い町のおかげで早くから出発する泊まり客も多く、厨房に行けばもう先客がちらほらおり、朝食を食べ始めていた。そうした具合だったから、幸いなことに厨房に頼めばすぐに二人の前に膳が運ばれてきた。穀物を粗く挽いて乳と煮た粥は、ほのかな蜂蜜の甘みと共に疲労感を和らげ、一緒に出てきたふわふわに膨らんで気泡を作る卵は、口に入れると舌の上でしゅわりと溶けた。

 宿を出て乗合馬車を捕まえ、野原や農村を挟んで小さな町を一つ越えればそこが国境だ。王室の印が押された旅券の効力は強く、ラピスが頭に布を被って顔があまり見えないようにしていても、すんなり関所を抜けることが出来た。その後、パニアに入ってからしばらくは田園地帯が多く、間に小さな村が点々とあるだけだ。ただし田舎といえど、ここから中心部の栄えた都市へ向かう旅人が多いせいか、道はきちんと整備され、旅籠も一定の間隔で建っている。そのおかげで行程は順調に進み、ラピスとクエルクスは時には徒歩で、時には乗合馬車を使いながら、着々と北へと進んで行った。

 旅程が問題なく進むもう一つの理由として、相変わらず季節が春から動かないおかげもある。過ごしやすい春の気候では、熱疲労の心配もなければ日暮れが早すぎることもない。旅をするには好都合だったのだ。

「さすがね。宰相は気候のことまで考えて出発時期を提案したのかしら。どう思う?」

「さあ、どうでしょう……」

 パニアに入って数日目、依然として心地良い微風が吹く日に道を行きながら、ラピスは青々とした空を仰ぎ、感心して言った。対してクエルクスの反応は鈍い。黒い眼をラピスの方ではなく、どこか遠くに向けている。

「なぁに、宰相はあなたの叔父上なんだから、私よりよく知ってるじゃないの」

 するとクエルクスは眼を細め、笑っているとも困っているとも言えない表情になった。そして一呼吸おいて口を開く。

「あの人の考えることは僕にもよくわかりませんよ。行きましょう。次の馬車に乗りたい」

 冴えない顔のクエルクスをいささか不思議に思いながらも、ラピスは追究をやめた。厳しい性格の宰相は身内であっても態度を甘くすることはないし、クエルクスに対してもそうなのかもしれない。いずれにせよ話す気がなければ話さない、これが普段の彼であり、そういう時には一応主人の立場にいるラピスが何を言おうと無駄である。

 ところでパニア国内、特に南のヴェントから入って中央へ向かう途中の地域は起伏が多い。標高の高い山脈がないかわりに緑広がる丘がいくつも続き、その間に市街が点在する。そして小高く広い丘の上には、そこら一帯に住む牧人の住まいのほか、旅人が寝泊まりする小屋が必ず設けられている。これは南北の国との貿易や文化交流の盛んなパニア国だからこそ、国の政策によって計画的に建設されたものだった。それらが何故丘の上かといえば、丘の周りを迂回する経路は甚だしく時間がかかるため、交通路の整備も南北を結ぶ道ほど進んでいないからだっだ。したがって南に位置するユークレースから北上するなら、こうした丘を超えて首都に向かうのが当然の道筋だった。

 二人ももうすでに二つほど丘を越えて比較的広い谷間の街に来ており、街外れの宿から出て次の丘へ向かう馬車を探しているところだった。

「あっ、馬車いたわ。すみませーん。二人分、席は空いていますか?」

 ラピスは石畳の道端に止まっている乗合馬車を見つけると、馬車の脇に腰を下ろしていた御者の方へ小走りに駆けて行った。谷と丘の上を結ぶこうした乗合馬車も組織的に運行され、一定間隔で走るよう出発時刻も管理されていた。御者はラピスに気付くと読んでいた本から顔を上げ、後ろのクエルクスをちらと見た。

「お嬢ちゃんと、そこの若いのがお連れさんかな。ちょっと狭いけど入れるだろ。乗んなよ」

「良かった! ありがとう!」

 二人が早速、幌のついた馬車に乗り込むと、既に先客が四人いた。見たところ旅人風のなりではなく、また荷物の中から生活物資や食べ物が顔を出していることからすると、丘の上の住人と見える。

「お邪魔します。ほらクエル」

「はいはい。お邪魔します」

 二人が腰を下ろした向かいには、クエルクスよりも少し年上らしき青年が座っていた。人好きのしそうな人物で、前に座した若い旅人二人が珍しいのか、気さくに話しかけてくる。

「旅の途中かい? 首都に行くの?」

「いえ、パニアを縦断して北に行きます」

「へえ、若いのに大変だ」

 ラピスとクエルクスがきちんと座席に落ち着いたところで、馬車が動き出した。谷間の街を抜け、次第に道に傾斜がついてくると、馬車の左右は菜の花が広がる草原に変わっていく。美しい金色が地面一面を覆い、緑の葉も見えない。

「うわぁー圧巻!」

 車中から外を見たラピスが歓声を上げる。海辺のリアに育ったため内陸の広い草原に馴染みのなかったラピスにとって、パニアの丘の風景はどれも魅力的だったのだ。これまでも、広大な牧草地にのんびりと寝そべる牛や、ぴしりと整列する葡萄棚などを見ては感嘆を漏らしていた。

「そんなに珍しいかな。ここら辺じゃよくあるけどね」

「珍しいですよ! すごい、綺麗、絵に描いたみたい!」

「ほらきちんと座っていないと。あまりはしゃいだらご迷惑になるよ」

 クエルクスが注意するが、青年や同乗している他の客はラピスを見て微笑むばかりだった。

「いやいや、旅の人にそんなに喜んでもらえるのは嬉しいね。この丘は菜の花の一大産地だから。パニアの菜の花油や染料の大部分はここから来てるんだよ」

「だからさっきの街は染物のお店が多かったのね。お兄さんも職人さんか何かなの?」

 青年は綿の服に小綺麗な麻の上着を羽織っており、荷物は膝に乗せた鞄一つだった。旅人でないことは明らかだが、荷物からして地元の商人でもなさそうだ。ならば職人、とラピスは尋ねたのだが、青年はかぶりを振る。

「いや、僕はちょっと丘の上に用事があるだけ。今夜は高いところに泊まる必要があるから」

 含みのある言い方で悪戯っぽく笑うと、周りの客達も小さく笑った。恐らく互いに馴染みなのだろう。クエルクスとラピスは、どういう意味だろうと顔を見合わせる。純朴とした表情、しかも身振りまでそっくりな二人を見て、青年はさも面白いと言うように微笑しながら提案した。

「興味があったら見せてあげるよ。君達も丘の上で宿を取るんだろう?」

 青年は馬車の外を示した。ラピスが顔を幌から出すと、少し先はもう丘の頂のようだ。下から見ると金色の花々の中に埋れているかのように、茶肌の壁を剥き出しにした木組みの小屋が数軒見えて来た。

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