第20話 王の求婚(四)

 ——何あれ何あれ何あれ。

 相当にむしゃくしゃしながら部屋へ戻ると、寝台に身を投げ出して指が食い込むまで枕を握りしめ、ラピスはじたばたと足を上下した。まだ怒りがおさまらない。

 ——ユークレースを守ってやるみたいなこと言ってくれちゃって。失礼にもほどがあるわよ!

 パニア王の高飛車な声音を思い返すとめらめらと炎が腹の中から胸の方まで燃え上がってくるようだ。女が為政者になるという考えなど露ほども無さそうなあの調子。

 ——ええ、どうせ私はまだ未熟でしょうよ! でもそっちはどうなわけ?

 触られた手が気持ち悪くて仕方ない。繰り返し布団に擦りつけても、王の成金趣味な指輪の感触が消えない。腹が立つ。

 しばらく寝台の上で右へ左へと身体を転がし踠いてみたが、気持ちが全く落ち着かなかった。窓から入ってくる夜風が生温くて妙に体にまとわりつく。誰かにこの鬱憤をぶつけたいが、客間に帰ってくると部屋は空っぽで、照明だけが無駄についているだけだった。

 クエルクスが手紙を書いていた机の上のインク壺は閉じられ、主人の手から離れた羽根ペンが壺の上で乾かされていた。手紙は無い。

 自分から部屋を出て行ったラピスだが、いつもなら側近として常に自分の横にいたクエルクスが今のこの気味悪い体験の後でここにいないことに胸の中がざわつき、これまた苛立ちが募る。

 すると突然、凄まじい音を立てて扉が開いた。

「ラピスっ! どこにいらしてたんですか!」

 扉の音に驚いてラピスが跳ね起きると、クエルクスが部屋の入り口で全身汗だくになり、扉に手をついて肩で息をしていた。

「クエルこそどこ行っていたのよ」

 ぶすっと聞き返すラピスだが、クエルクスの形相は常に無いほど硬い。

「先の手紙を街へ……ってそんなことはどうでもいいんです! 貴女は何処へ……」

「パニア王のところ」

「王⁉︎」

 駆け寄ってきたクエルクスはラピスの肩をしっかりと掴んで凝視した。まだ不機嫌なラピスはむすっとしたままクエルクスの眼を見返す。

「なぜ⁉︎ なんでこんな時間に王が貴女に用があるんです! 何言われ……何されたんですか!」

「求婚されたわ」

「求こ……っ」

 口から飛び出した言葉を途中で切り、クエルクスは寝台の脇の台へ置いておいた長剣を取り上げ、くるりと向きを変えた。その一瞬の行動に驚いたラピスは慌ててクエルクスの腕を引っ掴んでその場にとどまらせる。かなりの力を入れないと無理そうだったので掴んだところを思い切り引いてしまい、クエルクスは後ろによろけた。

「なんでクエルがそんな怒っているのよ!」

「なんでって……当たり前でしょう!」

「そんなっ、ちょっともうっ、腹の立つ言葉はあったけれどさすがに下女に求婚するような無礼は言わないわよ。ここにはいない『ラピス王女』が求婚されたのよ。きっぱり断ってきたんだから大丈夫」

「そういう問題ですか!」

「そういう問題でしょう!」

 しばらく引っ張るラピスと振り解こうとするクエルクスの押し引きが続いたが、ラピスの最後の叱咤が部屋に木霊し、貴金属の多い家具を震撼させ低く共鳴が響いて、まずい、と二人は同時に押し黙った。あまりに騒ぎすぎて誰かがやってきてはたまったものではない。

 共鳴が消えて部屋が静まり返ると、ラピスは数秒間かけて息を吐いた。

「まったくどうしたのよクエル。貴方がここまで荒々しくなるなんて珍しい」

 突っ立ったままのクエルクスの手を取り、今度は優しく自分の両手で包み込む。

「大丈夫よ。ラピス王女はパニア王の直々の申し出でなければ聞きませんって突っぱねてやったから。直々に来たって受けたりなんかしないわ、あのような高慢な王では国が心配」

 ね、と安心させるように言ってやるが、クエルクスはまだ憮然としたままだ。煮え繰り返った腹の中が収まらない、といった様子である。クエルクスが我を忘れるほど激しい言動に出るのは、ユークレースの中にいた時には一年に一度あればいい方だ。とりあえず落ち着かせようと先を続けてみる。

「明日には出立するって申し上げたし、王も止めなかったわ。だから今日は早く寝て、さっさとここを出て先に進みましょう」

 言葉にしたせいか、また旅の疲れと城での心労に加えて夜が更けてきたことも原因か、ラピスは自分の頭の方がぼんやりしてきたのに気が付く。瞼が重い。

 一方クエルクスは宥め調子のラピスを見下ろし、きつい眼差しのままで聞いた。

「……本当に何もされなかったのですか」

「平気よ。ちょっとまだ、触られた手とか気持ち悪いけど」

「っ⁉︎」

 瞬間的に息を詰め全身を硬直させたクエルクスだが、彼の手を離し大きく伸びをするラピスは気が付かない。

「あふ、ねむ……。もう寝ましょう。明日早く起きて急いでここから北上しないと……」

 そう言ったら全身の緊張が一気に抜けたようで、ラピスは無防備に寝台へごろんと寝っ転がった。酒が強すぎたのだろう。身を横にするや、もうすうすうと寝息を立てている。

 安らかな吐息が、窓際にかかる薄布の揺れる音と静かに混ざり、それ以外に部屋の中で聞こえる音は夏の虫が外で鳴く声だけになった。

「あの男……いつか叩き切ってやる……」

 クエルクスは扉の向こうを睨みつけて呟いた。

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