第52話 愛の真証(四)
剣に感じる圧は意外にも重い。歯を食いしばって踏ん張るが、少しでも気を抜いたら身体の均衡が崩れそうだ。
「歳のわりには、やるねえ……宰相」
「お前も料理番にしておくには勿体無いな。軍部に登用しておくべきだったか」
もう何度か打ち合ったあとであるのに、宰相の呼吸は全く乱れていない。それもそのはずである。宰相は無駄な動き一つせず、ほぼ柄を握る右手だけで剣を操り、降りかかる刃を止めていったのだ。とても俊敏な若者相手とは思えない。むしろグラディの方が疲弊してきていた。
「そろそろ手合わせも終わりにしてもらおうか。陛下も、なにも知らぬまま限りある眠りから
「断るね。俺はあの不器用なあんたの甥がわりと気に入ってるからさ。あれに会えたのは陛下のおかげだしね」
室内の国王は、昨今しばしばあるように簡単な刺激では目覚めない深い眠りにあった。覚醒したとしても、もはや立つのも難しい虚弱な身だ。このまま部屋に踏み込まれては抵抗すらできないだろう。
グラディの額に冷や汗が伝い、手も痺れてきた。体に感じる負荷を誤魔化そうと、無理に笑みを作る。
「それよりあんた、陛下が権力欲に落ちるのが怖いからって陛下を
「黙れ!」
途端に凄まじい力でグラディの長剣が払われ、体が支えを失った。さらに上体が傾いでいくところで右肩に打撃をくらい床に倒れ込む。
手をつく直前に宰相が扉を押し開くのが視界に入り、すぐさま体勢を戻そうと身を捻る。だがその時、廊下の角から小さな人影が飛び出した。
「ラピス!」
宰相が一瞬びくりとして踏み出した足を止め、首を後ろへ回しかける。すると振り向きざまにラピスが宰相の脇にぶつかり、左手に持たれた林檎を掠め取った。
「なにをす……」
「おっと」
ラピスへ手を伸ばした宰相の肩を掴み、グラディは首筋に剣の刃を当てる。ラピスは林檎を両手に包み持ってそのまま走り抜け、国王の居室に飛び込んだ。
秋の陽光が室内に満ちる。ユークレース王は、海が見える窓寄りの寝台に身を横たえていた。
ラピスは寝台に近づき、衰弱しきった父王の顔を眺める。自分が出発した時以上に深い皺が増え、頬は痩せて、眼窩はいっそう落ち窪んでしまっていた。
国王は外の喧騒にすら気付くこともできず、ラピスが間近に来てなおも瞼が開くことはなかった。小さく開いた口からは、ごく微弱な吐息があるだけだ。
手の内にある果実の鮮烈な輝きが、王の安らかな寝顔を照らし出す。ラピスは宰相が小刀を入れた薄く小さな切片を、林檎の切り口の隙間からつまみ上げる。そして黄金色の粒子で縁取られたそれを、果実が放つ眩い光に透かしてじっと見つめると、静かに、だが迷いなく、父王の口元に近づけた。
「ラピス! なにを……」
クエルクスの叫びと同じ瞬間に、ラピスの指先から切片が離れる。ユークレース王の顎がわずかに上向き、喉がとくり、と鳴った。
力なく、だがまだ残っていた王の呼吸が、途切れた。
絶望と諦念と驚愕が男たちの顔に浮かび、三人はその場に凍りついた。しかしそれとは対照的に、ラピスは確信に満ちた眼差しで父王を見下ろすと、筋張ったその手を取りあげる。
「父様。いまラピスが、起こしてさしあげます」
そう言って腰を落とすと、ラピスは目を閉じ、ゆっくりと父の頬に口づける。胸の内で祈りを唱え、女神へ願う。
そして最後の言葉を終えると、そっと唇を離した。
そろそろと瞼を開ける。視界が少しずつ明るさを取り戻していく。色づく紅葉を照らす、秋の陽だ。
すると、その女神の国と同じ光の中で、国王の胸が大きく動いた。深い呼吸をし、白いものの混じる眉をひくつかせ、そして、ゆるやかに目が開いた。
懐かしい瞳が、ラピスの姿をその中に映す。
「あぁ……ラピスだ。ラピスがいるんだね」
温かく大きな手が、ラピスの頬に触れた。
「おかえり。ラピス」
「ええ父様、帰りました。クエルも一緒よ」
ラピスは自分の両手を父の手に重ねて微笑んだ。ユークレース王は横たわったまま首を傾け、入り口にクエルクスの姿を見とめる。
「お前も無事だね。クエルクス。娘を、本当にありがとう」
国王はラピスに支えられながら身を起こし、クエルクスに礼をした。間口で固まっていたクエルクスは、慌てて片膝を床に立て、頭を垂れる。
「顔を上げなさい。良い甥を持ったね、宰相。さすがあなたの甥だ。大事な甥を危険に晒してまで、よく二人を旅に出してくれた」
そして王は寝台の上で姿勢を正し、呆けたままの宰相をしかと見つめると、深々と頭を下げた。
清らかな秋の陽の光が、林檎の輝きと融和する。居直った国王は、その果実を見つけて目を細め、ふぅ、と吐息した。
「なんだかもう、私の体は大丈夫みたいだ。皆のおかげだね。こんなに人々に恵まれて、私は、世界で一番の果報者だ」
皆を眺めて満足そうに告げた国王に、ラピスは思い切り抱きついた。
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