最期の夜 薔薇は融ける

 アキラは入院中、ミコトが大切だった。すなわち、愛していた。


 アキラの関わってきた多くの人間の中で、ミコトは段違いに無垢で、世俗に染まり切らない生きものである。あまりにも、まっさらな内面を現実に雪崩なだれ込ませて生きているだけに、周囲の蔑視を免れない。うなれば、純粋過ぎて真人間として生きられない、幼きニヒリストだ。


 もっと楽観的な人生の絵を描けば、いいのに。ミコトの脳裏に描き出された心象を、ほんの一部分でも分かつアキラは、入ったことのない病棟を前に躊躇ためらっていた。気軽に面会など許されないだろう。許されたとしても踏み込んで行けるのか。


「まぁ、お久し振りです。すっかり、お元気そうですね」


 かつてのアキラが、軽口に辟易した女医。その声に不思議と救われた気持ちに、なる。


「お久し振りです。お陰様で元気です。ミコトくんも元気ですか?」

「ミコトくん、もう此処ここには、居ないのです」

「快復して、退院したのですね」


 女医はアキラの楽観を、あっさり否定する。


「生きて、いけなかったのです。聖堂の近くで楽に、なっていました」


 女医の声は、ミコトを救えなかった哀音あいねを、裏に隠していた。


「分からず仕舞いのでした。あの子は私から生まれたのに、薔薇から生まれたなどという妄想にりつかれたまま……もうじき忌明きあけです」


 四十九日しじゅうくにちを境に、ミコトは、生と死の狭間あわいから抜け出す。

 突然のしらせ。アキラは、冥福を祈る気持ちに、なれなかった。


 きみは、もう此処ここには居ない。

 何処どこに行けば、咲いている?


 ミコトが潤んだ双眸ひとみしかとアキラを見据えて問う、あの調子だ。青年は自分の心に問い掛けた。あふれる答えは、ミコトの心のしろであった黄金の薔薇に吸い込まれる。月翳橋つきかげばしの近く、聖堂から外れたところに咲いている一輪の薔薇に。


 アキラの腕に抱えられた花束は、既に朽葉の香りがする。花束を抱きかかえたアキラは、愛している少年と同じ軌跡を辿たどる。


 その果てには、黄金の薔薇が季節外れの雪融水ゆきしろみずたたえている。亡霊のように当ても無く人生を歩き尽くして、渇きを堪え切れないアキラは、何の疑いも無く薔薇の杯を傾けて、ミコトのことを想うだろう。


 そして、少年の一縷いちるの希みは成就する。


 ✽.。.:*・゚ ✽.。.:*・゚ ✽.。.:*


 心のしろを作ってくれた、ただひとりの人。僕は他に何も要らない。

 アキラさん。貴方あなただけが居れば、それで、いい。


「僕の心が壊れても、愛して、くれますか」

「ミコトくん。きみは壊れてなんて、いない。壊れていたのは、僕のほうなんだ」


 過去に置いてきた、大切な忘れものを思い出した。ミコトだよ。


 ✽.。.:*・゚ ✽.。.:*・゚ ✽.。.:*


 その後、現実の時間は流れた。アキラとミコトの存在は、音無く降る雪みたいな時間ときとざされる。何年後かの皐月さつき、闇が訪れても、朝陽あさひが射しても、アキラとミコトを邪魔するものは何も無い。


 それこそが、薔薇の杯が斟酌したミコトねがいで、あったから。



                終

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皐月の闇に薔薇は融ける 宵澤ひいな @yoizawa28-15

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