第六夜 忠告

「おそらく、数ある逃亡のうちの、ひとつです。ミコトくん、何処に行きたいのかしら。誰に断ることも無く、何度も、逃避的に病院から姿を消すのです」


 アキラは、窓の外の果てしなく円環する世界を自由に飛翔する鳥を見て、その姿を借りたいと言ったときのミコトを思い浮かべていた。あのときは、夢ではなく、現実世界に羽ばたく鳥が見えていたではないか。


「今後、関わりを持たれないほうが、いい。貴方あなたの身のためですよ。あの子と一緒に居ると、心をおかしな具合に捩向ねじむけられてしまうのです。すっかり参ってしまいますよ」


 アキラは、患者のデータを流暢に語る女医に辟易した。

 女医の忠告には耳を貸さない。アキラは、ミコトと会い続けた。


 ✽.。.:*・゚ ✽.。.:*・゚ ✽.。.:*


「これは僕の食べものじゃない」


 ミコトは滋養を果てしなく拒否した。アキラは、そのメニューを眺める。


「シチューに白米にミルクにマカロニサラダ。真っ白で美味おいしそうじゃないか」

「じゃあ、アキラさんが食べてよ」


 ミコトは寝台を四十五度に傾けて、背中に枕を当てて座っていた。今日は、暖かそうなフランネルの寝衣パジャマを着ている。濃紺に控え目な黄金糸きんしの縞模様の入った服装は、やはりミコトの肌の白さを際立たせていた。


 明かり取りの窓から射す真昼のが、少年の艶やかな黒髪に反射して、キラキラと光っている。無造作に伸びた後ろ髪が、折れてしまいそうな細い頸筋くびすじに頼りなく揺れた。容易たやす手折たおれるのではないか。アキラは、そっとミコトの頸筋くびすじに指を伸ばした。


 触れた指の冷たさに驚いたのも束の間、ともするとアキラよりも冷たいミコトの手が、長い指をつかまえる。


「綺麗な指だね。長くて細くて、爪が切り込まれている。アキラさん、もしかして鍵盤楽器の奏者?」


 アキラは、ミコトの寝台の端に腰を下ろして語る。


「僕の指は鍵盤をはじく指じゃない。鍼管しんかんの中のハリをはじく指だよ」

鍼管しんかん? ハリ?」


 ミコトは、鍼灸師しんきゅうしを目指す苦学生のアキラの話に、興味を示した。


「まだ鍼を持つ免許は無いんだ。修業中だよ」

「学生さんなの?」

「うん……ミコトくんも学生さんだよね。何歳いくつ?」


 アキラの目に映るミコトは、小さな男の子だ。

 図書館で会ったときから、何故だろう。強くき込まれた。


 メラニン色素が欠乏したようなグレーの瞳を不安気に潤ませ、通った鼻梁びりょうは高過ぎず低過ぎず、小さな唇は適度な膨らみと奇妙なほどのあかさを保っていた。頬には唇同様の適度な脂肪があるが、おとがいは、すんなりと尖り、寝衣パジャマから露出しているくびと名の付くところは涙ぐましいほど、ほっそりとしている。胸鎖乳突筋きょうさにゅうとつきんの浮き立つ頸、腕骨の形の分かる手頸、脂肪の削ぎ落とされた足頸。


「僕は何歳いくつに見えますか?」


 美しい病人に魅入みいるアキラに、質問を返すミコトは微笑んでいる。


 彼が何歳でも、何者でも、いいと思えた。



   第七夜『お買いもの』に続く

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