皐月の闇に薔薇は融ける

宵澤ひいな

第一夜 図書館

 一様に黙然もくねんと本を読み続ける人々のあいだに、あたたかく停滞する空気。

 閉め切られた館内の温度と湿度は、いつも最適だ。


 長四角の図書館は、中央が明るく隅に近付くにつれ仄暗ほのぐらい。少年は、いつまでも仄暗さの中で、本を引き抜いたり戻したりしている。同じ動作……よく飽きないものだ。


 青年は図書館に訪れたときから、同じ動作を繰り返す少年に目を止めていた。

 次第に本の内容が頭に入らなくなる。問わずに、いられない。


「どんな本を探しているのかい?」


 本を棚に返す振りを装って、青年は少年の傍らに屈み込んだ。淡闇うすくらがりの中で、少年の容貌かおは象牙色の彫像めいて見える。問いが自分に向けられていると気付かないのか、少年の単調な手の動きは止まらない。


「どんな本を探しているのかい?」


 もういちど同じ問いを繰り返すと、少年は夢から醒めたような瞳で青年を見た。色素の淡いグレーの瞳に濁りは無い。一見して十二歳ぐらいの、ランドセルが似合いそうな少年。


「黄金の薔薇伝説の記述を探しています。お兄さん、御存知ですか?」


 幼い風貌に似合わぬ口振りだった。年齢の見当が付かなくなる。

 青年は本棚の下段から、植物図鑑を引き出した。


「薔薇のページを調べよう……見付けた」


 青年は折り畳んだ膝に図鑑を拡げて、少年に示した。黄金色きんいろと言うより、山吹色やまぶきいろに近い薔薇が載っている。


「アールスメールゴールドと言うらしい」

「アールスメールゴールド」


 少年は一度、聴いただけの薔薇の名前を記憶した。黄金の薔薇が、この世界の何処かに、あるとっただけで満足だった。青年に頭を下げると、更に仄暗ほのぐらさの深い奥の棚の隙間に、身を隠すように行ってしまう。


「ねぇ、きみ」


 図鑑を本棚に返した青年は、少年の背影すがたを追った。まるで迷路のような蔵書の影に、彼を見失う。探し出せない。少年ははかな残影かげとなって、目蓋まぶたなかに浮かぶのみ。しかも、そんな不確かな姿も、思い出す端から輪郭を奪われていく。


「不思議だな。何処へ消えたんだろう」


 ひとり言を漏らす青年の耳に、閉館十五分前を知らせるアナウンスが、あくまでも静かに響く。


『まもなく閉館時間です。資料をご利用のお客様は貸出カウンターへ、お急ぎください。お忘れもの、ございませんよう……』


 閉館間際まで少年の姿を探したが、見付けることは出来なかった。


「過去に大切な忘れものをした。もう二度と、彼は僕の人生に現われない」


 この気持ちと直感は何だろう。


 青年は足音も無く闇に紛れた少年を思い返した。

 意識の深くで、直感の外れることを願っている。



   第二夜『病室』に続く


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