第十夜 切り刻む

「ナイフは自分を傷付けるものじゃない。刃を己に向けるのは、おめよ」


いや。だって、僕の皮の中にうごめくんだ。悪い虫が。だから瀉血しゃけつする。痛くないよ。僕は薔薇だからね。恍惚こうこつなんだ」


 ミコトの腕の血液は、じきに固まった。皮膚の表面にナイフを浅く滑らせただけだったが、看過みすごせない。


「手当て、してもらおう」


 すべてが崩壊する予感。ミコトの脳裏に警鐘が鳴る。アキラのせた長い腕に、ミコトは蔓薔薇つるばらのように自分のかいなを絡ませる。


「優しくして。もう最後なんだ。こんな傷を作った。僕は、もうアキラさんに会えなくなる」


 アキラにとってミコトの行動や思想は、新鮮で興味深くて胸のすく思いがした。それは過去に置き忘れた、否、現実を生きるために、過去に意識的に置いてきた若い自分に端を発する。


「僕、人間で居ることに疲れちゃったんだ。僕は薔薇から生まれたから、この器は不自由過ぎる。器を破って、魂を正しい場所へかえしたいだけなの。分からない?」


 ミコトは間違えて人間に生まれてきたと信じた。の世の常識を理解しないし、しようともしない。無辺際むへんざいに拡がり続ける夢にばかり手を伸ばすミコトの想いは、アキラによって現実につなぎ止められているが、あたたかな庇護ひごの手は離れ去ろうとしている。


 アキラは、これ以上、ミコトに干渉するのが怖かった。


 昔、心因性発熱を起こしていた体質の正体を知りたくて、東洋医学を学んだ。

 自分の身体の仕組みが分かれば制御できると信じて。

 うまく制御できていたはず。彼と出逢うまでは。


 ミコトとたもとを分かつべきだ。アキラは思う。ずるい、おとなに成ったものだと。


「また会いに来るよ」


 納得させるように、少年を胸に抱いた。抱きすくめられたミコトは、アキラの狡猾こうかつさを見透かしている。


「嘘。そう言って来なくなるの、知っているよ。でも大丈夫。そんなことで傷付かないから。アキラさん、さようなら」


 ✽.。.:*・゚ ✽.。.:*・゚ ✽.。.:*


 アキラは二週間で快復して退院した。

 

 夢の欠片かけらを受け止めて、奇行を黙認しながらも、いざというときには制止してくれる。そんな理解者を失った少年は、再び重度の誇大妄想に堕ちた。


 誰もミコトを引き止められない。医師も看護師も治療に臨めば、ミコトに振り回され疲れ果てるだけで、成果は得られなかった。


 一方、アキラは国家試験に合格した。鍼灸師しんきゅうしとして生きていく。

 あんなに強固な存在だったように思われたミコトが、外の世界にかえった途端に斑消むらきえして、なかば青年の頭から忘れ去られようとしていた。


 それは必然的で仕方のない結果である。

 夢に生きる者は現実に殺される。

 ミコトは、その典型だった。



   第十一夜『皐月さつきの闇に』に続く

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