小説の生命は、実は読み終えられた直後にこそ始まるのかも知れません。結末を知ってしまった物語を再び読み返したくなる動機とは何か。それは当然にも、真っ新な未知と出逢う昂奮を味わいたいがためではなく、幾度となく触れられてなお摩耗するどころかその味わい深さを弥増す鞣革のような手触り、ならぬ「読み触り」、読み返す度に心地良い風合いを醸す「言葉」や「譬喩」との再会を庶幾するからに外なりません。
成る程、なべて物語は要約される運命から遁れることはできず、まさしく「要」だけを「約」められた梗概としてデフォルメされてしまいます。抗い難いことです。然は然り乍ら、ではその要約の過程で「不要」と断ぜられ、価値を見出されず零るるに任された「言葉」や「譬喩」はどうなってしまうのでしょうか。要約の罠に捕らわれない、天翔る崇高な「言葉」、そして寄木細工のように抜き差しならず精巧に組み上げられた鮮やかな「譬喩」……要約という営為とはおよそ対極にある著者の文学の最大の美点はそこにあります。それぞれが孤高の王権を保つ「言葉」達によって織り上げられる、宛も著者が奏でる音楽のような「物語り」に耳を傾けることで、小夜曲は読者の内奥に、その度毎に様々な愉楽を沸き上がらせてくれるでしょう。のみならず、読み返す度に実はそこに意想外の新しい発見がある、驚きがある、それは一意性を希求する硬質な自意識で固く鎧われた文体ではなく、読者の「我が侭」な解釈を柔らかく受け止め、それに呼応するように文そのものが撓やかに、そして美妙に形を変えて迎え入れてくれる、そんな懐の深い著者の文体の為せる業であるに違いありません。
コンプレックスを持つ少年・ラルム。
その珍しい名と容姿のコンプレックスに、心無い言葉が向けられる。
罵詈雑言が少年の心を痛めつけ、いつしかもう一つの世界へと誘われる。
あちら側で待っていたのは、美しい貴婦人と、ピアノを奏でるドール。
彼女らと過ごす中で、少年は心に平穏を取り戻していく。
そんな中、行われることになったドールのコンサート。
しかし、当日……
作者さまは、美しい言葉と言葉選びの才をお持ちです。
鮮やかで儚く、虹のように美しい世界。その幻想世界へと、あなたも踏み出してみませんか?
どこまでも続きそうなピアノの旋律は、この物語を彩り続けます。
生まれつき左耳の耳朶を持たない少年と、ピアノ講師の母親の物語です。
類稀なほど端麗で繊細な表現に彩られた、耽美でありながら「生」の力強さも感じる、味わい深い作品だと思いました。
まるで、優しいピアノの音色にも似た。
「みんなと違う」ことで、心に深い傷を負った主人公・ラルム。
息子を「みんなと違う」身体に生んでしまったことで自分を責める母親。
互いに思い合うからこそ外に出せずにいた想いが、巡り巡ってある一つの幻想的な「夢」を作り出します。
ラルムの中に培われてきた「母の音」と、目映い舞台で紡がれる「ラルム自身の音」。
物語中盤にあった演奏のシーンは圧巻でした。漲るような生命の力がありました。
夢から醒めた現実で、前に進んでいくための力も、母子それぞれがちゃんと自分で持っていたのだと思います。
動き出した時間と、変化していく心と、新たな出会いと。
彼らが奏でる「生きた旋律」が、未来を切り拓いていくラストシーンに、胸が温かくなりました。
選び抜かれた文章表現も素晴らしいです。
丁寧に、大切に読みたい、素敵な作品でした!
耳を覆いたくなるような、罵詈雑言の数々。世の中はそんな悪意に満ちた言葉に溢れています。機敏な聴覚を持つ耳朶のない少年ラルムにとっては、容赦なく耳に飛び込むそんな言葉が余計に突き刺さったことでしょう。
ピアノ講師の母と二人きりで寄り添うように暮らし、音楽を愛し、幾重にもかさねたガーゼの中で大事に守られ育ってきた少年。しかし母の失踪により、少年はこの現実という「外」の世界へ放り出されてしまいます。心ない言葉に傷つき、大切にしていたものを奪われる、心が罅割れそうな日々。絶望の果てに逃亡したラルムが迷い込んだ森の中で出会ったのは──、不思議な魅力を湛える貴婦人と、ピアノの自動演奏人形「たから」、そして、瑠璃色(アズレー)のピアノ。
硝子ケースに守られ、お互いを想う優しさだけで成り立っていた母と子のエピソードと、物語が進行する部分とが巧みにリンクし、お話は進んで行きます。優しく脆い母も息子も、発展と変化を恐れない強さを持って生き返ることができるでしょうか。それはホ長調の音色が聴こえてきそうなラストでお確かめください。
ドビュッシーの曲を織り交ぜながら綴られる、優しくも力強い再生の物語。
罅割れた心ですら、もう一度息を吹き返させてくれる、包み込まれるような温かさに満ちています。
傷ついた心の特効薬になることでしょう。
左耳の耳朶を持たずに生まれた少年、ラルム。
ピアノ講師を営む母親は、そんな息子の心と身体を優しくいたわり、常に音楽で包み、深い愛情を注ぎます。
また彼自身も、ピアノを演奏することで自分自身を表現する喜びを知り、ピアノとともにあることが彼の幸せとなっていきます。
母の愛に包まれ、守られ、憂いを味わうことなく幸せに流れるラルムの日々。
けれど、そんな母親がある日突然姿を消し——。
彼は、今まで守られてきた繭から引きずり出されるように、現実の苦しみに曝されます。
堪え難い屈辱と孤独の中で、ラルムは——。
人間は誰も、苦悩から逃れることはできません。それは時に、生きることを投げ出したくなるほどに心を追い詰め、重苦しく覆い被さります。
それでも——辛く苦しい経験は、乗り越えた後にやがて必ず自分を支える力になる。
苦しみの味が深いほど、その後には強い心が生まれ——「心の強さ」こそが、その先の道を明るく照らしてくれる。
そんなことを信じさせてくれる力強いメッセージが、一見消え入りそうに儚く美しいストーリーの根底に流れています。
ドビュッシーの調べが常に流れる、どこか儚く透明感に満ちた空気。それでありながらその奥底に真っ直ぐな強さを秘めた、深い魅力に満ちた物語です。
耳朶を持たない少年は、ある日森に迷い込んだ。その森の中で、ピアノの旋律に導かれるように、ある家に辿り着く。そこには美しい自動演奏人形のたからと、それをメンテナンスする御婦人がいた。しかし、あるピアノ発表会の夜に、ピアノを弾くはずだったたからが、壊れて動かなくなってしまう。耳朶のない少年は、たからの代わりにピアノを弾くことになる。少年の演奏は称賛される。
母が好きだったドビッシィーの曲。優しい母の声に、少年は目を覚ます。そして自分の体の一部から作られた、人工の耳朶を獲得する。そして少年の母はピアノ教室を再開する。そこで少年は、一人の少女と出会う。
音楽小説の域を脱し、ピアノを中軸にした幻想小説である。
耳朶の欠損。人形のたから。母のピアノ。
読んでいると、本当に文章に酔いしれるということが本当にあるのだ、と感動を覚える。音楽の基礎知識がなくても、十分に音楽と戯れることが出来る一作。限りなく透明でいるのに、紗がかかったように夢現。文章が単語レベルにまで研ぎ澄まされているのを感じます。
是非、御一読下さい。
生まれつき片耳の耳朶がない少年、ラルム。
ピアノ講師を勤める母に、これ以上ないくらいに温かな、優しい言葉とピアノ音楽を惜しみなく与えられてきました。
その母が、いなくなってしまった。
ラルムの世界が、音が、心ない外界の騒音から身を守るように閉ざされていきます。
そんな時に出会ったのは、優雅な雰囲気の貴婦人と、彼女の自動演奏人形、「たからちゃん」でした。
全編を通して、繰り返し流れるドビュッシーのピアノ曲。
母との時間、たからちゃんとの出会いをきらきらと彩る様々な色、匂い。
美しい言葉が、空気中を躍るように世界を満たしていきます。
そして、作者の温かな思いを感じずにはいられなくなります。
可愛いラルムと、彼を取り巻くたくさんの愛情。
ぜひ、心ゆくまで触れてみてください。