近くて遠い1


翌々週、誕生日を迎えた帆花は響也と神奈川県内の温泉地に向かった。午前中早めに出発し、ドライブの途中で緑豊かな風景を楽しみつつ目的地に到着。響也が予約してくれた旅館のチェックインまで時間に余裕があったため、荷物を預けて周辺を散策することにした。


 のんびり歩き回って写真を撮っているうちに昼過ぎになり、旅館へ戻る。響也がフロントで手続きをする間、広々としたロビーのソファで待っていた帆花は、名前を呼ばれ振り向いた。響也の手招きに応じて駆け寄ると、旅館の女性スタッフが笑顔を浮かべる。


 「本日はご利用ありがとうございます。ようこそおいで下さいました。当館では女性のお客様に対し無料で色浴衣を貸し出しております。よろしければいかがでしょうか」

 「いいんですか? ぜひお願いします!」

 「かしこまりました。それではこちらの見本からお好みの色柄をお選び下さい」

 「わ――――! こんなにあるんですね。どれにしよう……」


 せっかくの機会だ。できれば吟味したいが、あまり響也を待たせては申し訳ない。急いで選ぼうとする帆花の頭に、ぽんと響也の手が乗った。


 「待っててやるからゆっくり選べ。決まったら声掛けろ」


 言い置いて、気を利かせた響也はロビーへ踵を返す。一部始終を見ていた女性スタッフから「素敵な旦那様ですね」とこっそり告げられ、帆花は目を丸くして首を横に振る。


 「いえ、あの、彼は兄なんです」

 「まぁ、そうでしたか。大変失礼しました。記念日と伺いましたし、お似合いでしたのでてっきり。優しいお兄様ですね」

 「はい。いつも感謝しています」


 頷きながら笑顔を返し、帆花は一番最初に目に留まった浴衣を借りた。そして響也と合流し部屋に行く途中、先ほど女性スタッフに掛けられた言葉を思い返す。


 響也とは血縁関係になく、外見が似ていないのは当然だが、不思議とこれまで恋人や夫婦に間違われたことがなかった。歳が離れているし、自分は完全に妹として扱われている。きっと雰囲気で家族だと分かるものなのだろうと理解していた。だから驚いたのだ。


 来年春にはとうとう社会人になる。響也と並んで歩けば、傍目にはパートナーに見えるのだろうか。しかし周囲の目がどうであれ響也との関係は変わることがないだろう。近付いたと思ったら遠く離れて行くような切なさに胸を押さえた直後、「着いたぞ」と響也の声がして気を取り直した。今は余計なことを考えて落胆する時ではない。



 カードキーで扉を開いた響也が先に入室を促してくる。与えられた客室は旅館最上階にある6つの特別室のうちの1部屋だった。約80平米の和洋室はレイクビューで、バストイレはもちろん、テラスには専用の露天風呂まである。帆花は息を呑み、たちまち瞳を輝かせて室内を一周した。


 「すごーい! 見て見て、エスプレッソマシーンまであるよ! 有機栽培のコーヒーをご自由にお飲み下さいだって。贅沢だねぇ」

 「はは、本当に喜ばせ甲斐のある奴だなお前は。部屋の探検もいいが、昼食を予約してあるから行こう。さすがに腹減っただろ」

 「うん!」


 応える声が自然と弾む。その後、響也に連れられたのは館内の懐石料理店だった。景観に恵まれた窓際のテーブル席で創作懐石コースを味わうプランらしい。月ごとに変わるという献立は旬の山の幸や魚介がふんだんに使われており、盛り付け、色使いが繊細で華やかだ。タイミングをみて順に運ばれる絶品料理の数々に舌鼓を打ち、帆花は落ちそうになる頬に左手を添えた。


 「おぃひぃ……!」

 「おーおーいい食べっぷりだな」


 ニヤつく響也にからかわれたが、幸せのバロメーターが上限を突破しているので気にならない。終始頬が緩むのを抑えられず、どんどん箸が進む。やがて胃がはちきれんばかりに満腹になる頃、フルーツたっぷりのホールケーキが登場し、目玉が飛び出そうになった。


 「お誕生日おめでとうございます」


 にこやかな店員に祝福され、ふと、フロントの女性スタッフが言っていた「記念日」という言葉が脳裏に蘇る。響也がサプライズを用意してくれていたのだ。


 「誕生日おめでとう。ベタだけど一応な」


 さらっと告げた響也がキャンドルの火を吹き消すように手振りする。胸がじんとして返事ができなかった。願い事はもう決まっている。


――――響ちゃんがこれからも笑顔でいられますように。


 想いを込めて息を吹く。キャンドルの火がジジっと揺れ、消えて、細く白い煙と共に蝋の溶ける匂いが立ち上った。見守ってくれていた店員が拍手をし、それに気付いた周囲の宿泊客までも同様に祝ってくれる。


 店内はすぐに落ち着きを取り戻し、再び静かな時が流れ始めた。それでも帆花の瞼には、今しがたの幸福な光景がしっかり焼き付いている。


 「……ありがとう、素敵な誕生日を企画してくれて。すごく幸せだよ」

 「なんだよ急にしんみりしやがって。これが最後じゃあるまいし」


 息を抜いて笑う響也が愛おしくて、喉の奥がギュッと締まった。これが最後じゃないなんて誰が保障できるだろう。手を伸ばせば触れられる距離にいて、自分に笑顔を向けてくれる――それが当たり前でないことは痛いほどよく知っている。響也と共に過ごせる残りの日々を、指折り数えていくような寂しさに苛まれるようになったのはいつだったかもう思い出せない。




 昼食後、部屋に戻ってからはお腹が落ち着くまでの間、一人掛けのソファに座って外の景色を眺めていた。目前に広がる青い空と湖のコントラストが美しい。枯れ葉を纏う山の木々が寒々しいが、冬を控えた凜とした空気は好きだ。


 頭の中を空っぽにしていると、響也に肩を叩かれた。


 「おい、大丈夫か? 魂抜けて心ここにあらずって感じだぞ」

 「……っ、ごめん。お腹いっぱいになったら眠くなっちゃって。せっかくだからお風呂入ろうかな。先にいい?」

 「もちろん。時間はまだ十分あるから慌てずゆっくり浸かってこいよ」

 「ありがとう。じゃあお言葉に甘えて」


 腰を上げ、持参した小ぶりなボストンバッグから着替えを取り出す。露天風呂へ繋がる脱衣所は客室と扉で隔てられている。帆花は脱衣所に入って服を脱ぎ、客室前のブラインドを下げるスイッチを押した。


 タオル一枚でテラスへ出ると、少し風があり、想像以上に肌寒い。身震いして桶を掴みかけ湯をし、湯気の立つ湯船に体を沈めた。はじめこそ熱く感じたが、浸かってしまえばすぐに慣れる。四肢を伸ばして存分に温泉を堪能した。


 「はー、いいお湯だった」


 浴衣に着替え、簡単に髪を結い上げて戻ると、響也はベッドボードにもたれ寛いでいた。


 「ふ、顔が溶けてるぞ」

 「いーの。美味しいご飯と温泉だもん。溶ける」


 開き直り、とろんとした顔で頬を上気させつつ、ペットボトルの水をごくごく飲む。腰に手を当ててふぅーっと息を吐くと、響也が口角を上げる。


 「その様子だとまだまだ色気より食い気だな」

 「なっ!? う~~~~、大きなお世話だよ! ほら、響ちゃんも早くお風呂入ってきたら?」

 「そうだな。せっかくだしひとっ風呂浴びてくるか」


 両腕をあげてうんと伸ばし、ベッドを下りた響也が脱衣所へ向かう。扉が閉まるのを見届け、ため息を零した。――まったく、人の気も知らないで。


 帆花はベッドの上にダイブし、ごろりと寝転ぶ。リモコンで液晶テレビの電源を入れ、適当にチャンネルを選んでひとりの時間を過ごした。




 やがて脱衣所の扉が開き、振り向いた帆花は硬直した。紺色のシンプルな浴衣を纏い、濡れた髪を掻き上げる響也は色気が、刺激が強すぎる。直視するのが憚られるも、目が離せなかった。


 喉を潤すためにペットボトルの水を口にし、唇の端を親指で拭う何気ない仕草に見惚れる。すると、視線に気付いた響也が眉間に皺を寄せた。


 「鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔してどうした。のぼせたか?」


 唐突に距離を詰められ、鼓動が逸る。熱を測るように額を合わされそうになり、慌ててベッドの隅に後ずさった。普段と違う態度に響也が瞳を見開くが、今は平常心でいられそうにない……! 


 「ご、ごめん、ちょっと横になってたから寝ぼけてビックリしたの。髪、濡れたままだけど乾かさないの?」

 「ん? タオルで拭いたし十分だ。そのうち乾く」

 「だめだよ! 風邪引いちゃうよ。どうせドライヤーが面倒なんでしょ? もう……。そこに座って。乾かしてあげる」


 肩をすくめる響也を睨み、ベッドの端をぽんぽん叩いた。響也の気が変わらないうちに脱衣所からドライヤーを持ち出し、ベッド横のコンセントにプラグを差し込む。響也を座らせ、自分は前に立つ。ドライヤーのスイッチを入れると、ゴーという音と共に熱風が吹き、無言で前傾する響也の髪を乾かし始めた。


 ブロー後、お礼を告げた響也が手櫛で髪を整える。ドライヤーのコードを本体に巻き、片付けた帆花と視線が合う。お互い口を開きかけた状態で固まった。


 「「先にどうぞ」」


 台詞が重なり、沈黙が流れる。


 「ここは年長者に発言権を譲ります」

 「さらっとオッサン扱いすんじゃねぇよ!」

 「いたっ!? もう、すぐ手が出る~! 暴力反対!」


 額にチョップをかまされた後、反撃しようとしてドキッとした。片方の手首を掴まれたのだ。真剣な面持ちに切り替わった響也が口を開き、


 「お前、俺に何か隠してないか?」

 「……え?」

 「昴がうちに来た時、忠告されたんだ。肝心なことを見落としてるって。ずっと考えてたんだが思い当たる節がなくてな。お手上げだ」

 「――隠し事なんて何もないよ。からかわれたんじゃない?」

 「いや、昴はこの手の冗談を言う奴じゃない。だから重く受け止めた。あれから喉に小骨が引っかかってるような違和感があるんだ。放置はできない」


 帆花は瞠目した。昴の意図も気になるが、何より、響也はずっと頭を悩ませていたのだ。全然そんな素振りはなかった、いや、感じさせないようにしていたのだと今更気付く。響也はそういう人だ。ごく稀に甘えてきても、決して弱音は吐かない。


 黙る帆花の複雑な表情を前に、響也は手首を掴む力を痛くない程度に強めた。


 「やっぱり何かあるんだな。もし俺に遠慮して黙ってるなら話して欲しい。お前の願いの1つや2つ、叶えてやる程度の甲斐性は持ち合わせているつもりだ」


 信じてくれと――瞳で訴える響也。迷いのない眼差しを注がれ、すとんと腑に落ちた。響也は昔から一貫している。両親がいないことがハンディにならないよう、できるだけ多くの選択肢を帆花に与えようとしてきた。おそらく進路……就職の件で言い出せないことがあるのだと誤解されている。


 帆花は自分に触れる響也の手の甲を撫で、そっと手首を解放させて隣に腰かけた。


「……実はね、響ちゃんに伝えたいことがあるんだ。少し照れ臭いけど聞いてくれる?」

「ああ」

「ありがとう。私、今日で22歳になったよ。響ちゃんが私を養うって宣言してくれたのと同じ歳」


 意外な話の流れだったのか、響也は微かに面食らった。

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