近くて遠い2


 「当時の響ちゃんはまだ大学生だったんだよね。実際に歳が追いついてみて、どれほど大変な決断をしてくれたのか身に染みてる」


 響也には荷が重いと伯父が反対したのも頷ける。単に経済的な負担が大きいという話ではない。まだ中学生だった帆花は高校進学を控えていた。保護者になればその後の進路を含め、様々な面で責任を持って導いていく必要があったのだ。


 帆花を養えば響也のライフプランは相当な影響を受ける。新社会人になる身でわざわざ茨の道を歩むことはない。帆花は親戚に預けるのが無難な選択肢だった。それでも響也は決して帆花の手を離さなかった。


 「私は自分の身の振り方を選べる立場じゃなかったから、響ちゃんと離れることになっても仕方ないと思ってた。だから響ちゃんが迷わず私の手を取ってくれた時、すごく驚いたし……嬉しかった。もし響ちゃんが手を差し伸べてくれなかったら、私の存在に困っていた親戚の誰かと暮らしていたかもしれない。そしたらきっと私は負い目を感じて、人の顔色を窺うばかりの卑屈な人間になっていたと思う」


 自分を嫌いにならずに済んだのは響也のおかげだ。何も持たない自分の存在を肯定し、側にいることを許してくれた。バラバラになってしまった心の欠片を拾い集め、繋ぎ合わせてくれた。


 「ずっと守ってくれてありがとう。生活に苦労することなく進学させてもらって感謝してる。雨の日も風の日も、響ちゃんがいてくれたから乗り越えられた」


 帆花は最大級の感謝を込めて笑顔を浮かべた。響也の両頬に手を伸ばし、ふわっと優しく包み込む。


 「就職したらたくさん恩返しをさせてね。響ちゃんが困った時は私が力になる。頼れる妹になるから楽しみにしてて」


 "これからは自分のことを第一に考えて行動して欲しい"、そんな想いを胸に秘め、帆花は漆黒の双眸をまっすぐ見つめた。凛とした眼差しを受け、響也は緊張の糸が切れたように息を吐く。そして帆花の片手に自分の掌を重ねた。


 「……お前がもう俺の手を借りなくてもしっかり歩いていく力があることは分かってる。それでも際限なく考えちまうんだ。もっと何かしてやれることはないかって。過保護もここまでくると重症だろ? お前のことが大事で仕方ないんだ」


 噛み締めるように告げた響也の、愛おしげな声色に胸が締め付けられる。呆れたみたいに、困った表情で笑う響也に抱き着きたい衝動に駆られた。理性との狭間で葛藤し、帆花はそっと手を引っ込め響也の肩に額をつける。


 「だめだよ響ちゃん。そんな風に言われたら甘えたくなる」

 「おー、どんと来い。むしろ少しくらい甘えてもらわないと俺の出番がなくなっちまう」


 後頭部にポンと手が置かれ、優しく髪を撫でてくれる。絶大な安心感に包まれながら、平常より少し早い鼓動を刻む心臓が喜びに震えた。叶うなら、このままずっと触れていて欲しい。


 名残惜しさを抑えてゆっくり顔を上げると、想像以上に近い距離で視線が絡み合う。帆花の前髪を斜めに流し、響也は瞳を細めた。


 「お前は俺に恩返しすると言ったが、感謝するのは俺の方だ」

 「私は何もしてないよ?」

 「毎日進んで家事を引き受けて、俺の帰りを待っててくれただろ。どんなに疲れて帰っても、お前があの家で笑ってるの見たら全部吹き飛ぶんだ。こんなに幸せなことがあるか?」


 ふっと顔に影が差し、コツンと額が合わさる。


 「――ずっと守ってくれてありがとな。笑顔で側にいてくれるお前に救われてる。父さんと母さんに感謝しないといけないな。お前と家族になれて本当に良かった」


 しみじみと零された呟きは帆花の心臓を鷲掴みにした。気を抜けば泣いてしまいそうで、瞼の裏に集まる熱を霧散させようと瞬きする。一拍置いて体を離した響也は、瞳を潤ませる帆花の頭をくしゃっと撫で、立ち上がった。


 「実はお前にもう1つ誕生日プレゼントがあるんだ」


 言って和室に置かれた鞄の中から小さな紙袋を取り出し、手招きする。帆花は喜んで響也に近付き、紙袋を受け取った。わくわくしながら中を見ると、ベロア製の細長いアクセサリーケースが入っていた。開いてみると、上品な一粒ダイヤモンドのネックレスが収まっている。シンプルなデザインだが、花びらを模した爪が可憐だ。


 「わぁ、素敵……!」


 とても嬉しそうに頬を緩ませる帆花の姿を見て、響也は安堵した。


 「気に入ってもらえて何よりだ」

 「いつのまに用意してくれたの? 通販?」

 「いや、休日出かけた時に買ったんだ。自分の目で見てお前に一番似合う物を贈りたかったからな」


 サラッと答えた響也に目を丸くする。ジュエリーショップへ足を運び、真剣に選んでくれた響也の姿を想像するとくすぐったくて、胸がじんわり温かくなる。


 「ありがとう響ちゃん。大切にするね」


 眩しい笑顔を向けられ、響也は満足げに口角を上げた。


 「せっかくだから着けてみろよ」

 「今? 浴衣だけど変じゃないかな」

 「変じゃない。つーか俺が見たい」


 うずうずする響也が可愛くて、思わず吹き出してしまう。帆花は慎重にケースからネックレスを出し、留め具を外した。首にかけようとしてもたついていると、見かねた響也が「貸してみろ」と背後に回る。響也の指がうなじに触れてドキッとする。


 器用にネックレスを着けた響也は、ふと、髪をまとめているバレッタに目を留めた。


 「この髪飾り最近よく使ってるな。新しく買ったのか?」

 「ああ、これ? 昴さんに貰ったの」

 「昴に? いつ」

 「この間うちに来た時だよ。出張のお土産だって」

 「ふーん……そうか」


響也はちょっと面白くなさそうに眉をひそめた。――――忠告してきた事といい、最近昴の帆花に対する態度が変わってきた気がする。


 「響ちゃん? もう動いてもいーい?」


 帆花の声ではっと我に返る。許可を得て振り向いた帆花はネックレスに指先を添え、はにかみながら首を傾げた。


 「どう? 似合う?」

 「めちゃくちゃ似合ってる。ま、俺が選んだんだから当然だな」

 「えへへ」


 照れ臭そうに頬を掻く帆花は、もう誰が見ても子供じゃない。少しずつ大人になるのを見守ってきた響也としては感慨深いものがあった。


 帆花は澄んだ春空のように晴れやかで、温かい空気を纏っている。自分の全てを無条件で包み込んでくれると錯覚するくらい、側にいると心地が良い。花が咲き綻ぶような笑顔に癒されているのは、昴も同じかもしれない。 


 「お前さ、昴のことどう思ってる?」

 「えぇ、急にどうしたの」

 「いいから答えろ」

 「んー。素敵な人だと思うよ。気が利いて優しいし、尊敬してる。頼れるお兄ちゃんって感じかな」

 「そうか……。予想通りの回答だな。いいか、昴は兄貴じゃねーぞ」

 「そんなの分かってるよ。ものの例えだよ」


 ムッとして唇を尖らせると、真剣な顔つきの響也と視線が重なる。向かい合ったまま距離を詰められ、自然と見上げる体勢になった。鼓動が速まり咄嗟に俯くと、響也に頤おとがいを持ち上げられる。


 「本当に分かってるのか? 箱入り娘にしてるのは俺だが、免疫なさすぎも危ないな。昴は信用できる奴だが、あいつも男だ。無防備になるなよ」

 「……っ、何言ってるの? 昴さんは厚意で優しくしてくれてるだけでしょ。下心なんてないよ」

 「そうやって言い切るところが心配なんだ。少しは用心しろ」

 「もうっ、さっきから昴さんに失礼だよ! これじゃ箱入り娘どころか鍵付き箱入り娘じゃない!」

 「鍵付きどころか箱の中にも箱が入ってるぞ」

 「マトリョーシカじゃないんだから……!」


 あまりの過保護っぷりにだんだん頭痛がしてきた。響也の手をそっと払い、帆花は一歩後ろに下がる。


 「納得してないけど、響ちゃんの言い分は分かりました。もうこの話はおしまい! 帰りも運転長いし、今のうちにお昼寝しといたら? せっかく良いお部屋借りたんだもの。帰るまでゆっくりしようよ」

 「それは助かるが……いいのか? お前暇だろ」

 「全然! 私は景色を眺めながらコーヒー飲んでまったりするよ。響ちゃんの分は起きたら淹れてあげる」

 「魅力的な提案だな。じゃ悪いが俺は少し休む。何かあれば遠慮なく起こせよ」

 「はーい」


 和室から仕切りなく続くベットルームへ移動する響也を見送り、帆花はポット類の並ぶテーブルに向い立つ。エスプレッソマシンを操作してコーヒーを淹れると、芳しい香りが立ち昇る。カップをソーサーにのせてソファに腰を沈めれば、至福のひとときがやってきた。


 (まったく……昴さんは親切にしてくれてるだけなのに、心配性だな)


 小さな苦笑を零し、白い湯気を吹いてカップに唇を寄せる。苦味がやや強く、酸味控えめなコーヒーの味が口いっぱいに広がった。眼前に広がる美しい景色を瞼に焼き付けようとじっと目を凝らす。今日のことはずっと忘れないだろう。妹としてではあるが、響也はこの上なく大切にしてくれる。


 (ずっと側にいて欲しいなんてわがまま言わないから……もう少しだけ独占させてね)


 告げない想いをコーヒーと共に飲み下して、帆花は無意識にネックレスを握り締めていた。

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