戸惑い/Side神楽木響也
冬がきたと実感したのは、吐いた息が空に向かって白く溶けた時だった。
12月に入ると、年末に近付くにつれどことなく街中の空気が浮足立つ。オフィスがある六本木ヒルズのけやき坂通りはクリスマスイルミネーションの名所で、この時期になると無数のLEDで美しく彩られる。周囲の高層ビルまで青い光に染め上げられる光景は、銀世界に迷い込んだように幻想的だ。
とある平日、業務に没頭していた響也は昼休みになると同時に席を立った。昨晩伯父から連絡があり、昼食を共にすることになったのだ。伯父とはたまに連絡を取り合っているが、用事がない限り会う機会はない。誘いを受けた時は少々驚いたが、快諾した。
合流後、伯父と入ったのはヒルズ内の老舗中華料理店だった。シックな店内は程良い高級感が漂い、落ち着いて話をするのにちょうどいい。料理を注文した後、伯父は晴れやかな笑みを浮かべた。
「さて……顔を合わせるのは久しぶりだな、響也くん。元気そうで安心したよ。帆花ちゃんも変わりないか?」
「はい、おかげさまで。就活中はさすがに気疲れしている様子でしたが、内定が出てからすっかり元気を取り戻しました」
「ははっそれはよかった。帆花ちゃんももうすぐ大学を卒業して社会人か……。これでようやく肩の荷が下りるな」
労いの込もった声色で告げられ、否定も肯定もせず微笑を返す。伯父に悪気はなく、純粋な気遣いで言っているのだろう。しかし『肩の荷が下りる』というのはしっくりこない表現だった。帆花の保護者としての責任は決して軽くないが、彼女自身を重荷に感じることはなかったからだ。
ROSHEに入社して以来、響也の生活リズムはがらりと変わった。スピーディーに効率よく働いているが、主なカウンターパートが外国にあるため時差の都合で変則的な対応が求められる。どうしても残業せざるをえない場合も多く、プライベートのほとんどは家族と過ごす時間に充ててきた。
気付けば家と会社の往復生活が7年――。
傍目には味気ない人生かもしれないが後悔はない。帆花の側にいると、身近にはささやかな幸せが溢れていることに気付くことができる。見慣れた景色でさえ輝いて見えるのは、かけがえのない愛おしい日常が深い喜びを与えてくれるからだ。
家に帰れば帆花がいて、屈託のない笑顔で出迎えてくれる――そんな日々に終わりが近付いていることを感じ、幸せな夢から覚めるのを惜しむように、春の訪れを先延ばしにしたくなる瞬間がある。それほどに響也は幸福だった。
「どうした? 食べないのか?」
伯父に声を掛けられハッと我に返る。いつのまにかテーブルに料理が並べられていた。
「すみません、少し考え事をしていました」
雑念を払って箸を取る。週替わりセットの内容は小籠包、干し帆立と玉子のスープ、メインディッシュ2品、白飯、干し切り大根。思った以上にボリューミーだ。食欲を刺激する見た目と香りだが、不思議と箸が進まない。
伯父はじっと響也を観察した。
「心ここにあらずって感じだな。何を考えてたか当ててみようか。ずばり帆花ちゃんのことだろう」
「……分かりますか」
「顔に出てたぞ。ここからは勝手な想像だが、複雑なんじゃないか? 帆花ちゃんが社会人になるのは喜ばしい。だけど大切に守ってきた分、自分の手を離れてしまうのが寂しい」
「おっしゃるとおりです」
的確な指摘に苦笑し、素直に頷く。伯父はとても優しい眼差しを向けてきた。
「君が帆花ちゃんのために頑張ってきたことはよく分かってるよ。だから帆花ちゃんが自立した後、長い間張り詰めていた緊張の糸が切れて抜け殻みたいになるんじゃないかって心配だ。そうならないためにそろそろ自分の人生に目を向けるといい。実は今日はその話をしにきたんだ」
伯父は上着のポケットからスマホを取り出し、写真を表示して響也に見せた。画面に映っていたのは20代半ばくらいの女性だった。話の内容を察して気が重くなったが、響也は涼しい顔で「見合いですか」と訊いた。
「そうだ。君は女性に困らないだろうから余計なお節介かもしれないが、会うだけ会ってみないか? 彼女は家内の知人で気立てが良いと評判のお嬢さんでね。女性の多い職場で出会いがないそうだ」
「お気遣い感謝します。ただ、正直なところ当分結婚は考えられません。ニューヨーク本社に異動の話があって前向きに検討しているので」
「なるほど。それじゃなおさらいい機会じゃないか。側で支えてくれる女性がいれば助かるし、励みになるだろう。この件は週末を目途に返事をもらえればかまわないからゆっくり考えてみるといい」
「伯父さん、俺は――」
言い募ろうとする響也を遮り、伯父は鷹揚に手を振った。
「もちろん無理にとは言わない。君はいつでも断る権利がある。だからこそ今は、せっかくの料理が冷めないうちに頂こう」
にこやかな笑顔で言われれば反論しようがない。食事を終えるまでの間、響也は伯父の他愛ない話に耳を傾けていた。
*** *** ***
同日夜、帰宅した響也は軽く夕食を摂り、リビングのソファで寛いでいた。伯父が持ってきた見合い話で妙に気疲れしてしまった。寝る前に少し息抜きをしたい。
スマホにイヤホンを差し、音楽を聴きながら目を瞑る。深いため息を零した瞬間、芳しい香りが鼻先を掠めた。瞼を開くと、帆花が傍らのローテーブルにティーカップを置いてくれたところだった。
イヤホンを外してお礼を告げる。視線を上げた帆花は「どういたしまして」と笑顔を浮かべた。
「起こしちゃってごめんね。お茶が少し冷めた頃に声掛けようと思ったんだけど」
「いや、ちょうど飲み物が欲しかったところだ。しかしいい香りだな。ハーブティーか?」
「うん。カモミールブレンドだよ。ストレス緩和と睡眠に効果があるみたい」
帆花の笑顔と細やかな心遣いに癒される。帆花は響也の顔色を見て体調を察し、また、時間帯に応じて出すものを変えてくれるのだ。例えば夕食は遅い時間に摂ることが多いため、消化に良いものを控えめに。就寝前はなるべくカフェインの入っていない温かい飲み物を、といった調子だ。
「いつも気が利いてて助かる。俺のことはもういいから早めに休めよ」
「うん。でももう少しここにいる」
「夜更かしすると朝が辛いぞ」
「大丈夫。あのね、実は響ちゃんにお願いがあるの。聞いてくれる?」
「もちろん。どうした?」
隣に腰掛けた帆花は、自分の膝の上をポンポン叩いた。
「ただいま1名様に限りまして膝枕キャンペーン実施中です。お兄さん、ちょっと横になってもらえませんか?」
予想外の可愛らしいお願いにふっと笑みが零れる。
「魅力的なお誘いだが、足痺れるぞ」
「お茶が冷めるまでの間だけ」
「んー……分かった。それじゃお言葉に甘えて」
「どうぞどうぞ遠慮なく」
帆花はにっこりして奥に詰める。響也はスマホにイヤホンを巻き付け、テーブルの上に置いた。ソファの上で体を伸ばし、そっと帆花の太腿に頭を乗せる。柔らかい感触が伝わってきて潰れないか心配になった。
「重くないか?」
「私は平気だからリラックスして。はい深呼吸~」
「はは、癒しのトレーナーにでもなるのか?」
「響ちゃん専属で」
「それは助かる。でもこれはヤバイな。本気で眠っちまいそうだ」
「いいよ。おやすみなさい」
「いやいや、ダメだろ。ちゃんと起きる」
宣言しつつ瞼を閉じて深呼吸する。ハーブティーの香りと膝枕の相乗効果で急激に体が重くなっていった。帆花に優しく頭を撫でられ、すとんと寝落ちしそうになる。さらに――
「今日も一日お疲れ様でした。明日、素敵な一日になりますように」
穏やかな声が降ってきて、嘘のように疲れが飛んでいく。肩に入っていた力が自然と抜け、心が凪いでいくのを感じる。絶大な癒し効果を得た響也は安堵の息を吐いた。
「話した通り、今日は伯父さんと会ったんだ。で、話の流れで見合いを勧められてな。断るつもりだが棚上げになってる」
微かに息を呑む気配がして瞼を開けると、帆花が胸を撫で下ろしていた。
「よかった、悪い話じゃなくて。てっきり響ちゃんの身に重大なことが起きたんじゃないかって心配だったんだ。気疲れしてるみたいだったから」
「心配させて悪い」
「ううん、全然。無事ならそれでいいの」
ふわっと笑みを綻ばせる帆花が眩しい。響也の僅かな変化を読み取り、最大限配慮してくれたのだと改めて身に染みる。
「……かなわないな、お前には」
響也はゆっくり体を起こしてソファから足をおろし、座った状態で首を左右にストレッチした。
『帆花ちゃんが自立した後、長い間張り詰めていた緊張の糸が切れて抜け殻みたいになるんじゃないかって心配だ。そろそろ自分の人生に目を向けるといい』
伯父の言葉が脳裏によぎる。確かにその通りかもしれない。
「見合い、受けてみるか」
ボソッと独り言を零す。何気なく帆花に視線を移すと、こちらを見つめる栗色の瞳がひどく切なげで心臓が跳ねた。しかし帆花はすぐに柔和な笑みを浮かべる。
「どういう経緯でお見合いの話になったか知らないけど、せっかくだし前向きに考えてみたら?」
「そう思うか?」
「うん。響ちゃんはもっと自分のことを考えていいと思う。少なくとも私を理由に躊躇わないで。仮に結婚しても家族であることに変わりないでしょ? だから大丈夫」
「まあ、ずっとお前の家族であることは変わらないな。しかしお前が結婚したら一番に頼るのは旦那になるのか。それはちょっと妬ける」
なんて昴に聞かれたら相当からかわれるな、と呆れ混じりに笑って肩をすくめる。帆花は何も言わず足元に視線を落とした。
「そんなのずーっと先の話だよ。もしかしたら結婚できないかもしれないし」
「半端な男には任せられんから婚期は遅れるかもな」
「こんなにシスコ……んんっ、妹思いのお兄ちゃんがいたら大抵の男の人は引くと思うよ」
「俺にビビるような腰抜けは論外だ、問題ない」
言い切る響也に帆花は息を抜いて笑う。その後、僅かな沈黙を破ったのは帆花だった。
「ねぇ響ちゃん。たとえこの先離れ離れになっても、この家で顔を合わせた時は、お互いが出会った素敵な出来事を分け合おうね。過去を惜しんで『あの頃はよかった』って悲しむんじゃなく、『あの頃もよかった』って笑い合いたい。いつだって『あの頃があったから今がある』って胸を張りたいから」
明るい笑顔を浮かべる帆花がなぜか泣いているように見えて、胸が騒めいた。何か大切なことを見落としていると直感する。
「帆花、お前――」
眉を寄せた響也は手を伸ばしたが、帆花はすっと立ち上がった。
「じゃあそろそろ寝よっかな。響ちゃん明日も仕事だし、早めに休んだ方がいいよ。ティーカップは朝私が片付けるからそのまま置いてて」
「このくらい自分でキッチンに下げる。でもありがとな。おやすみ」
「おやすみなさい」
微笑んだ帆花が階段を上がっていくのを見届け、響也は静寂に身を委ねた。心に燻った違和感の正体を見極めようと思考を滾らせる。しかし掌の砂が指の間から零れ落ちるように掴めそうで掴めない。
(俺は何を見落としてる?)
焦燥感に襲われ、ハーブティーを飲み干した。仄かな花の香りが鼻腔を抜け、優しい余韻を残す。これからカモミールの香りに出会う度、帆花を思い出す予感がした。
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