思わぬ邂逅1




 『見合い、受けてみるか』


 響也の一言は全身の細胞を騒めかせた。結婚が急速に、それも思いがけない形で現実味を帯びてきたことに衝撃を受け、一瞬、動揺を隠し切れなかった。どうにか平静を装ったものの、後日正式に見合いが決まった時は底のない暗闇に突き落とされるような不安に襲われた。光が遮られ、ひどく冷たい雨に打たれ続けているようだ。 


 胸に重苦しさを抱えたまま日々は流れ、お見合い当日。帆花は響也を見送った後、支度をして銀座へ向かった。昴と会う約束があるのだ。家で留守番していても落ち着かないし、気が沈むので誘ってもらえてありがたかった。


 地下鉄銀座駅の改札を過ぎて地上へ出ると、澄んだ冬空が視界に飛び込んでくる。遊歩道沿いには煌びやかなショーウィンドウが並んでいて、眺め歩くだけで楽しそうだ。オーナメントが鈴生りのクリスマスツリーは夜になれば電飾が点灯し、一層輝きを放つだろう。すれ違う人々の顔色までどことなく明るい。眼前に広がる幸福な景色に埋もれて寂しさを感じるのは、今、隣にいて欲しい人がいないからだ。


 帆花は両頬を叩いて自分を戒めた。見合いの件は一旦忘れよう。昴に暗い顔を見せて心配をかけるわけにはいかない。


 待ち合わせ場所の某百貨店前は大勢の人で賑わっていた。黒い細身のロングコートを纏った昴はエレガントな佇まいで華がある。道行く女性の視線を集める昴に声を掛けるのは勇気が必要だったが、待たせては申し訳ない。帆花は意を決し、急ぎ足で駆け寄った。


 「こんにちは昴さん! ごめんなさい、お待たせしましたか?」


 眉尻を下げて控えめに見上げると、昴は穏やかな笑みを浮かべた。


 「やぁ帆花ちゃん、こんにちは。大丈夫、僕も今来たところだよ」

 「よかった。あの、今日はお誘いありがとうございました。一日よろしくお願いします」


 お辞儀した帆花に対し、昴は「こちらこそ」と恭しく自分の胸に手を当てた。


 「じゃ、さっそくランチに行こうか。店を予約してあるんだ。気に入ってもらえると嬉しいな」

 「わー、楽しみです!」


 にこやかに笑みを交わし、目的地に移動する。他愛ない会話を続けながらも、昴のエスコートは完璧だった。歩幅を合わせるだけでなく、人にぶつからないよう絶妙なタイミングでフォローしてくれる。時々肩に手が回り、引き寄せられてドキッとしたが、安心して身を委ねられた。


 5分程歩き、到着したのは商業ビルの10階にある上品なブラッスリーだった。窓ガラスに囲まれたダイニングは明るく、オープンキッチンに面していて広々している。木のインテリアを用い、所々ゴールドで装飾された店内はカジュアル過ぎず、落ち着きがあって居心地が良い。


 スタッフにテーブルへ案内され着席し、何気なく周囲を見遣った。クリスマスイブだからかカップルが多い。昴の勧めでランチコースを注文した後、帆花は恐縮しつつ肩をすくめた。


 「素敵なお店ですね。ご一緒するのが私でよかったんでしょうか」

 「もちろん。帆花ちゃん以上の適任者はいないよ」


 仄かに熱っぽい眼差しを送られ、どぎまぎした。帆花はやや視線を落とし、頬にかかる髪を耳に流す。


 「えっと……昴さんとは何度もお会いしてますが、こうして二人でお出かけするのは初めてですね」

 「いつもは響也が一緒だし、家にお邪魔することが多いからね。だからかな。ちょっと緊張してる?」


 図星を突かれ、帆花は微かに頬を染めた。


 「分かりますか? 実は男の人と個人的に出掛けた経験がなくて。相手は昴さんですし大丈夫だと思ったんですけど、やっぱり緊張するものですね。さっきからずっと粗相がないか心配で……。大学生にもなって恥ずかしいです」

 「何も恥ずかしいことなんてないよ。むしろ初デートの相手になれて光栄だ。ここはリラックスさせてあげたいところだけど、もっとドキドキしてもらおうかな」


 昴の魅惑的な笑みに心臓が跳ねる。深い意味はないと分かっていても、本気か冗談か判別しがたい態度を取られるのは調子が狂ってしまう。とりあえず別な話題を振ろうとした瞬間、ウェイターが料理を運んできて救われた。


 ランチコースはチーズクリームが添えられたオリーブのサブレで始まった。前菜は色鮮やかな季節野菜ときのこのエチュベ。続くメインディッシュは鹿肉の赤ワイン煮込みだ。フランボワーズソースと絡めれば、舌の上で絶妙なハーモニーを奏でてくれる。


 「ん~! とっても美味しいですね!」


 感嘆の声を漏らすと昴は眩しそうに瞳を細めた。


 「喜んでもらえてよかった。帆花ちゃんは美味しそうに食べるから、見ていて幸せな気持ちになるよ」


 "お前はホント美味そうに食うなぁ"


 からかう声色で、甘やかすような笑顔を向けてくる響也の姿が昴に重なる。どうしてここに響也がいないのか――考えた途端、胃が重くなった。食事の手を止めた帆花は無意識に俯き、表情を曇らせた。僅かな変化だったが、昴はそれを見逃さなかった。


 「悩みがあるなら聞くよ。響也には言いにくいこともあるだろうし」


 弾けるように顔を上げると、昴は気遣いを込めた眼差しを向けてきた。


 「帆花ちゃんの思いやり深いところは長所だけど、そのために自分の主張を抑えがちだよね。少しの我慢も積み重なれば辛くなる。響也にも言われるだろうけど、遠慮せずもっと素直になってもいいんじゃない? 僕も頼ってもらえた方が嬉しいな」


 昴の双眸は優しい光を宿していて、弱った状態で見つめると全てを打ち明けてしまいたくなる。帆花はぐっと堪えて拳を握り締めた。


 「お気遣いありがとうございます。せっかく昴さんとご一緒してるのに考え事なんて失礼でした。ごめんなさい」

 「謝ることないよ。それで、どうしたの? 君をそんな風に落ち込ませる原因は何? 太陽が輝くのを忘れてしまったみたいに今日の笑顔には元気がないよ」


 どうやら落ち込んでいると見抜かれていたようだ。帆花は困って沈黙した。まさか響也の見合いがショックだとは言えない。けれど適当な嘘は思いつかないし、昴の厚意を裏切るような真似はしたくなかった。少し本音を混ぜて相談してみようか――言葉を選んで。


 「今日、響ちゃんがお見合いするんです」

 「らしいね」

 「ご存知だったんですか?」

 「うん、本人から聞いた。でも正直意外だな。響也は見合いなんてしないタイプだと思ってた」

 「私もです」


 昴と顔を見合わせ、くすっと笑みを浮かべた。こんな風に響也のことを話せる相手がいることに心が休まる。昴に「それで?」と先を促されたので、見合い相手がどんな人か気になっていることを告げた。


 「なるほど。それは気になって当然だ。未来の義姉になるかもしれないからね」

 「はい。でもそれだけじゃないんです。響ちゃんには言いませんでしたが本当は少し……複雑で。いつかこういう日が来ることは覚悟していたはずなのに、いざとなると路頭に迷ったみたいに心細いんです。この歳で兄離れできずにいるなんて子供っぽいですよね。手放しで喜べない自分が嫌になります」


 瞼を伏せてため息を零すと、昴は首を左右に振った。


 「これまでずっと二人で頑張ってきたんだから、戸惑うのは当然だよ。胸にわだかまりを抱えたまま結婚の話が進むのは不安だろうし、今の気持ちを正直に伝えてみたら? 響也なら真摯に向き合ってくれるよ」

 「私もそう思います。だからこそ言いたくないんです。響也ちゃんには誰に遠慮することなく、自分のために生きて幸せになって欲しいんです」 

 「優しいね。でもそれじゃ本末転倒だ。まだ気付かない? 響也の幸せはいつも君の側にあるんだ。帆花ちゃんが心から笑えなきゃ響也は幸せになれない」


 帆花は驚き、瞳を見開く。思いがけない指摘を受けて目が覚めるようだ。固まっていると、昴は真剣な面持ちに変わった。


 「俯いていると足元しか見えないように、思い詰めた人間は大抵驚くほど視野が狭くなる。こうあるべきだっていう固定観念がその先の思考を妨げてしまうんだ。そういう時は側にいる誰かが気付かせてあげる必要があるよね。僕は喜んでその役割を果たしたい。二人とも大切な人だから」

 「昴さん……」  


 小さく息を呑み、昴を見つめた。暗闇の中に遮られていた光が眩く射し込んだようだ。状況が変わったわけじゃない。苦しい立場であることに変わりはない。それでも、大切に想い見守ってくれる人の存在に気付いた時、どうしてこんなにも温かく、心強く感じるのか。


 深い感謝を込めてお礼を告げると、昴は「その笑顔が見たかったんだ」と微笑む。そしてしんみりした空気を軽くするように食後のデザートを勧め、さり気なく話題を変えてくれた。


 「さて、これからどうしようか。いくつか選択肢があるけど、夜はうちの会社のクリスマスパーティーに参加しない?」

 「パーティーですか。素敵ですね」 

 「ふふ、会場はこの近くのホテルで毎年ホールを貸し切ってやるんだ。社員は家族や恋人を同伴してもいいことになってるから気軽に入れるよ」


 昴がコーヒーを口に運ぶ様子を眺めながら、帆花は首肯する。


 「ぜひ行ってみたいです。ただ、会社のイベントなら響ちゃんに一言断らないと……」

 「それなら大丈夫。今日帆花ちゃんと会うことは事前に伝えてあるし、パーティーの件も僕から連絡しておくよ。きちんとエスコートするって念押ししとくから安心して」

 「いいんですか? ありがとうございます。あ、ホテルならドレスコードがあるんじゃ」

 「余程カジュアルでない限り平気さ。今の服装のままでも十分だけど、せっかくの機会だ。ドレスアップして楽もう。喜んでスポンサーになるよ」

 「そんな! そこまで昴さんに頼るわけには――」


 慌てて両手を横に振ると、昴はクスクス笑った。


 「帆花ちゃんにはいつも元気をもらってるからささやかなお返しだよ。社会人になればそのうちパーティーに出席することもあるだろうから、予行練習だと思って。ね?」


 昴の提案は魅力的だ。響也は会社のプライベートなイベントには滅多に参加しないし、顔を出しても短時間で帰宅してくる。一度、連れて行ってくれと頼んだが、女癖の悪い酔っ払いがいるという理由で却下された。これを逃せばもう機会は巡ってこないかもしれない。迷った末、帆花は決心した。


 「じゃあお言葉に甘えて。そのかわり後で必ずお返しさせて下さいね?」 

 「それなら今日隣にいてくれるだけで十分過ぎるくらいお返しになるよ」


 見惚れるような甘い笑顔を向けられ、顔に熱が集まるのを止められなかった。


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