思わぬ邂逅2




 青い絵の具を水に溶かしたような空から透明な光が零れる。道路沿いに並ぶマロニエの木はくすんだ黄緑の葉を茂らせ、輪郭の曖昧な影を落としている。ぱりっと音を立てそうな空気は乾燥していて頬を撫でる風が冷たい。帆花は冬の寒さに身震いし、マフラーを顎まで引き上げた。


 ランチの後で立ち寄った高級ブティックはシックな佇まいで、建物の黒い壁面にブランドのアイコンデザインが大きく描かれている。英国発のインポートアイテムが幅広く揃えられた店内を見回していると、パンツスーツ姿の女性店員が近付いてきた。


 「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか」


 戸惑う帆花の肩に昴の手が優しく触れる。


 「彼女にパーティー用のドレスと小物を見立てて貰えるかな。できればちょっと大人っぽい感じのコーディネートで」

 「畏まりました。それではこちらへどうぞ」


 昴の助け船にほっと息を吐き、店の奥まった場所にあるフィッティングルームに移動する。店員は少々お待ち下さいと踵を返し、やがて数着のドレスを抱えて戻ってきた。


 「お待たせ致しました。いくつか候補をお持ちしましたのでぜひお試しを」


 ハンガーにかかった状態のドレスをバーに吊り下げるのを見届け、帆花はお礼を告げてドアを閉めた。





 「お客様、サイズはいかがでしょうか」


 絶妙なタイミングでノックされ、


 「大丈夫です。……着替え終わったので出ますね」


 恐る恐る外へ出る。待合用の詰め物をした長椅子に腰掛けていた昴は、帆花が現れた途端に立ち上がった。


 「驚いたな。そういう格好も似合うだろうと思ってたけど、想像以上だ」


 目に賞賛を浮かべ、輝く笑顔で両手を広げる。帆花は睫毛を伏せて頬を赤らめた。


 紺色の、ウエストが絞られた着丈の長いクラシカルなドレスはスカート部分にチュールが入っていてふんわりしている。胸の上から襟元、ぴったりとした七分丈の袖、広くVの字に開いた背中は花柄のレースシースルーでなかなか大胆だ。


 「ドレスなんて初めてで落ち着きません」

 「はは、すぐ慣れるよ。そのドレス即決していいくらい似合ってるけど、せっかくだし他のも試してみたら?」

 「それは……お待たせするのが、というか色々と申し訳なくてあまり気が進まないんですが」


 歯切れ悪く口ごもり、足元に視線を滑らせる。帆花の心情を察し、昴は小さく笑みを漏らした。


 「元々僕の提案なんだから遠慮する必要ないよ。それにドレスアップした君を初めてエスコートする特権があるしね」


 ごく自然に距離を詰めた昴に手を取られ、甲に唇が触れた。貴婦人にするような仕草で、羽根が落ちるような軽い口付けだったが、気恥ずかしさを掻き立てるには十分だった。


 結局、勧められるまま試着を繰り返し、昴はその度にくすぐったくなる褒め言葉をくれた。悩んだ末、最終的に選んだドレスははじめに着たもので、クラッチバックとイヤリング、パンプスまで購入、店頭で見送る店員に深々とお辞儀されながらブティックを後にした。


 「お疲れ様。ちょっとしたファッションショーだったね」


 昴はさり気なく帆花の荷物を持ち、車道側を歩く。相変わらず細やかな気遣いに長けた人だと感心しつつ頷き、


 「映画のヒロインになったみたいですごく楽しかったです。でもさすがにこんなにたくさん頂けません。後で代金を支払わせて下さい。お願いします」

 「だめだよ。おねだりされるなら別なことがいいな。例えばもう一着ドレスを追加するとか」

 「もう、昴さん!」


 抗議を込めて昴のコートの裾をギュッと掴む。からかうような眼差しを向けられたその時、背後から追い越してきた大柄な男性にぶつかりそうになった。咄嗟に昴が引き寄せてくれたおかげで助かったが、周囲への注意がおろそかになっていたことを反省した。


 「ごめんなさい、今のは私が不注意でした」

 「僕が隣にいる時は少しくらい油断しても平気だよ」 


 穏やかに細められたブロンズの双眸ははっとするほど綺麗だ。どこまでも続く黄金色の葡萄畑が朝露に濡れ、陽光の下で煌めく光景が脳裏に浮かぶ。


 「昴さんの目は宝石みたいですね。色素が薄くて光を浴びるとすごく綺麗」


 思わずため息を零す。するとすかさず


 「もしかして口説いてる?」

 「え!?」

 「冗談だよ」


 悪戯が成功した少年みたいに笑って、昴は帆花の手を握った。そのまま昴のコートのポケットに突っ込まれ、自然と身を寄せ合う形になる。しなやかな手は意外と関節が太く、血管が浮いていて、包まれていると男の人だと意識させられる。


 「あの……」


 横断歩道の信号待ちでそわそわして見上げると、


 「これもエスコートの一環です。君はしっかりしてるけど実はけっこう抜けてるところがあるよね。響也が過保護になる気持ちが分かるよ」


 くらっとするほど魅力的な笑みを向けられた。脈が速まり慌てて視線を逸らすも、昴は上体を屈めて帆花の耳に唇を寄せ、


 「ただ僕は響也じゃないから、あんまり可愛い反応されるとちょっかいを出したくなる。自覚ないだろうけどほどほどにね」


 柔らかい口調で忠告した。声色は甘くかすかに危険な香りがして、頷くのがやっとだった。




 ショッピングを終えた後はパーティーに備え休憩することになった。運良く駅界隈のカフェで席を確保できたので、一時間ほど居座った。お互い話が弾んで楽しいひとときを過ごした。ふと会話が途切れて沈黙が訪れても、海辺で深呼吸するような心地良さだった。


 空が夕暮れのグラデーションに彩られる頃、腕時計を見遣る昴に「このままギリギリまでここにいますか?」と訊いた。


 「いや、実はもう一軒立ち寄りたい店があるんだ。そこで着替えも済ませようかと思ってる」

 「またブティックですか?」

 「それは着いてからのお楽しみだよ」


 きょとんと目を丸くする帆花に微笑みかけ、昴は伝票を手に立ち上がる。あまりに自然な流れだったので口を挟む隙がなく、帆花は慌てて財布を取り出し背中を追う。


 「待って下さい。私、自分の分は払います」

 「いいよ。僕はいつも君の家でご馳走になってるからね。そうでなくても僕の方がずいぶん歳上で社会人なんだから気にしないで」


 スマートに会計を済ませた昴は頑としてお金を受け取らなかった。帆花は申し訳なさで胸がいっぱいになったが、あまり食い下がるのもみっともないので素直に厚意を受け取ることにした。 




 昴が向かったのは日比谷方面の交差点に面したお洒落なヘアサロンだった。フランスの邸宅のような内装はアンティーク調に統一されていて、温かみのある照明が目に優しい。アイスグレーの壁には落ち着いた金縁の鏡がかかっていて、赤い革張りのソファはゆったりしている。


 「女性好みの可愛らしいお店ですね。もしかして今日のためにわざわざ探して下さったんですか?」

 「うん、君のヘアメイクをお願いしようと思ってね。僕は受付の前にある待合スペースにいるよ。ゆっくり行っておいで。予約してるから名前を言えば分かるはずだ」


 本当に至れり尽くせりで恐縮した。昴に見送られ、受付を済ませると速やかに完全個室のVipルームに案内されてひどく驚いた。昴はサラッとこういうことができてしまうのだ。 


 「彼氏さん、すごく素敵ですね」


 担当になった女性スタイリストが丁寧に髪を梳きながら微笑む。帆花はとりとめのない思考から引き戻された。


 「彼は兄の友人なんです。私にとっても大切な人ですがそういう関係では……」

 「えっそうなの? 絶対デートだと思った!」


 彼女はくりっとした瞳を瞬かせて意外そうに唸る。温めたヘアアイロンに毛先を巻き付ける工程をこなしながら、


 「でもクリスマスイブにあんな人と一緒に過ごせるなんてすごくラッキーですよ」としみじみ付け足した。それについては異論がない。


 帆花は談笑しつつ、ヘアメイクが徐々に仕上がっていくのをじっくり眺めた。普段は身だしなみ程度のメイクしかしないため、顔のパーツがはっきりする華やかなメイクは新鮮だった。睫毛をカールし、マスカラをたっぷり塗られ、自分では絶対に選ばないだろう赤みの強い口紅を引かれた。


 完成したメイクは派手だったが、ドレスに着替えると全てが調和した。髪型は垢抜けたシニョンで、堅過ぎずちょうど良い抜け感がある。風に運ばれた瑞々しい薔薇の香りを纏ったような色香が滲み出ている。

 バックの中身を移し替え、新しい靴を履くと日頃はフラットシューズを愛用しているので7センチのヒールはずいぶん視線が高くなった気がした。


 荷物をまとめて部屋を出ると、待っていたスタイリストは興奮気味に大きな鏡の前に立つよう勧めた。自分の姿を改めて見つめる。まるで別人――ううん、魔法をかけられたみたい。高揚感で足元がふわふわする。


 受付に戻ると既に支払いが済んでいて、帆花を前にした昴は人目も憚らず「最高に綺麗だ」と女神を讃えるように言った。周囲の女性客の羨望の眼差しが居たたまれなかったが、気付かなかったふりをして昴に近付く。


 「ここまで本格的にドレスアップするとは思いませんでした」

 「気に入らなかった?」

 「まさか! 期待以上です。色々と手配して頂いてありがとうございます。お手数かけますが今夜のエスコートよろしくお願いします」


 満面の笑顔でお辞儀され、昴は「喜んで」と優雅に片腕を差し出した。





 夕焼けはすっかり夜闇に溶け、街中のイルミネーションが眩く浮かび上がっている。帆花は世界的に有名な高級ホテルにいた。タワーの上層階10フロアを占有するロケーションは地上200メートルからの眺望に恵まれ、中は全体として和洋の調和を感じさせる贅沢な空間が広がっている。オリエンタルな紫、赤、モノトーンを基調に配色されたホテル内は洗練された空気が漂っていた。


 「な、なんだか気後れしちゃいます」

 「大丈夫。リラックスして行こう」


 昴の手が励ますように背中に添えられ緊張が和らぐ。ロビー階のエレベーターに向かう途中、うっとりするほど豪奢なクリスマスツリーに目を奪われた。隣接するラウンジからピアノの生演奏が鼓膜に流れ込んでくる。


 パーティー会場のメインバンケットルームは息を呑むほど壮大だった。高さ5mはあるだろう天井でシャンデリアが煌き、着飾った大勢の招待客が華やかな雰囲気を醸し出している。ソファやテーブルが並ぶ休憩用のホワイエと緑豊かな公園に面するオープンテラスも貸し切りで、自由に出入りできるのだと昴が説明してくれた。


 賑やかな話し声が遠く近く行き交うのに混ざってヴォーカル、ピアノ、サックスなどで構成されたアーティストのパフォーマンスが聞こえてくる。パーティーの熱気に圧倒されていると、ホテルの給仕係がトレイに載せたシャンパンを運んできた。躊躇いがちにグラスを受け取った瞬間、


 「あれっもしかして朝日奈さん? わー! 今年はいらしてたんですね!」


 甲高い声がして飛び上がった。セクシーな紫のワンピースに身を包んだ女性が喜び勇んで歩み寄ってくる。同僚かな――帆花は二人が軽く挨拶を交わすのを黙って見守った。昴は敬語を使っていないので後輩なのだろう。やがて彼女は艶やかな唇にとびきりの笑みを浮かべ、


 「クリスマスイブにお会いできるなんて嬉しいです! あー、朝日奈さんが来るって知ってたらもっと気合い入れて来たのに残念~。ところで隣の方は……?」


 顎に手を当て首を傾げる。頭から爪先まで素早く視線が走り、値踏みされているのを感じた。背筋が緊張で硬くなった時、


 「彼女は僕と同期の神楽木の妹だよ。今夜は僕のお姫様なんだ」


 守るように腰を抱き寄せられて鼓動が跳ねた。昴はいつも香水をつけていて、控えめだが、近付くととてもいい匂いがする。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る