スイートホーム

水嶋陸

プロローグ1


桜が満開になる4月上旬。小学6年生になったばかりの斉藤帆花は期待と不安に胸を高鳴らせていた。物心つく前に両親が離婚し、長らく母と二人暮らしだったが、この日、義理の父と兄ができるのだ。


「緊張してる? 大丈夫よ。再婚相手はとっても優しい人だから」


母親の薫に励まされ、帆花は頷いた。両家の顔合わせは新都心の高級ホテルで行われることになっている。新宿駅西口から東京都庁方面へ抜ける道中、緊張はしていたが足取りは思っていたより軽かった。


指定されたホテルへは駅から徒歩10分強で到着。薫の先導で先方と落ち合う予定のレストランへ移動した。高級ホテルと聞いて内心気後れしていたが、ガラスの壁面から自然光が差し込む店内は温もりがあった。


石造りのフロアには大きな木材のテーブルが配され、客席からは中庭を臨むことができる。にこやかな店員に通されたのは個室だった。


「遅くなってごめんなさい。思ったより支度に時間がかかっちゃって」


恐縮する薫に続いて入室すると、着席していた男性が腰を上げた。


「薫さん! よく来てくれたね。時間は全く問題ないよ。むしろ僕の都合でなかなか顔合わせを実現できず申し訳なかった。今日はゆっくりできるから、心配しないで」


柔和な笑みを浮かべる再婚相手の男性は、薫によると40代半ばだそうだが、想像していたよりずっと若々しかった。緩くウェーブのかかった黒髪に清潔感のあるさっぱりした顔立ち。アイスブルーのシャツと細身のスーツがよく似合う。


(この人がお父さんになるんだ)


思わず見つめていると、男性と視線が重なる。彼の表情が一層明るくなった。


「君が帆花ちゃんだね! 初めまして、神楽木正義です。君のことは薫さんから話に聞いていたよ」

「斉藤帆花です。母がいつもお世話になっています」


帆花が深々と頭を下げると、背後からふっと笑い声がした。人の気配に振り向き、声の主を見上げて硬直した。帆花の胸中を察した正義はため息を吐く。


「響也、だめじゃないか。いきなり笑われたら不安になるだろう」

「悪い。礼儀正しいなと思って感心したんだよ」

「まったく……。電話すると出て行ったっきり戻って来ないからひやひやしたぞ。ほら、二人にご挨拶して」


正義に促され、前に進み出た響也の凛とした佇まいに目を奪われた。


180センチはあるだろう長身、引き締まった体躯。ナチュラルなストレートの黒髪に、色気を秘めた端正な顔立ち。シンプルなVネックのカットソーとジャケットをさらりと着こなした立ち姿が驚くほど絵になっている。


「初めまして。息子の響也です。お待たせしてすみません」

「ううん、遅れたのは私達の方よ。会えて嬉しいわ。わざわざ時間を作ってくれてありがとう」


薫と握手した響也は、次に帆花の前に来て屈み、目線を合わせた。呆然と自分の顔に見入っている帆花に、響也は薄い唇の端を上げた。


「そんなに見つめられると穴が空きそうだ」

「響也! 年下の女の子をからかうんじゃない」

「妹になるんだしちょっとくらいいいだろ」


正義の叱責に悪びれる様子もなく、響也は帆花に右手を差し伸べた。


「俺は今18だから、君の7歳上かな。よろしく」


不意に向けられた眩しい笑顔に、帆花は一瞬で恋に落ちていた。軽く手を握られただけでカッと頬に血がのぼり、心臓がドキドキする。


だけど響也はずいぶん年上で、義理とはいえ妹になる。家族として特別な感情を抱いてはいけないことは子供ながらに理解していた。だから芽吹いたばかりの恋心に蓋をして、精一杯、平静を装った。


「よろしくお願いします。響也お兄ちゃんって呼んでもいいですか?」

「かまわないけど、長くないか? 俺は帆花って呼ばせてもらう」

「それじゃあ……『響ちゃん』にします」

「いいわね、それ! 私も真似しようっと」


隣で見守っていた薫に肩を抱き寄せられ、正義が会話に加わる。笑顔で手を取り合い、家族になった四人はしばらくして共に暮らし始めた。品川の住宅街に建てられた三階建てのコートハウスは、一級建築士で、建設会社を経営する正義が設計したものだ。


帆花は幸せな日々を送った。


――――四年後、両親が他界するまでは。

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