あなたの側にいたいから1
同日夜、ゼミの飲み会を早めに抜け出した帆花は響也との待ち合わせ場所に向かっていた。表参道の裏路地の雑居ビル地下にある居酒屋は場所が分かりづらかったため、すぐに合流できそうなヒルズ前で会うことにしたのだ。
ケヤキ並木の遊歩道沿いに軒を連ねる商業ビルの看板や、店舗から漏れるLEDの青みを帯びた白い光が目に眩い。人々の話し声が行き交う雑踏の中、帆花は響也の姿を捉えてはっとした。歩みを止め、しばし響也に心を奪われる。
フィット感のあるダークグレイスーツを纏う響也は美しく、知的だ。片手をパンツのポケットに入れ、何気なく佇む姿さえも細部まで計算し尽くして完成された芸術品みたいだと思う。悠然と構えていながら微塵も隙がなく、冷たく硬質な色気を放つ彼に近付くことが躊躇われた。普段、自分には見せない一面……。
どのくらい見惚れていただろう。不意に響也が帆花に気付き、視線が交わって心臓が跳ね上がった。一瞬周囲の音が掻き消え、空気の粒子が震える。早鐘を打つ鼓動に合わせて血流が激しくなり、帆花はきつくスカートを握り締めた。
身動きの取れない帆花の元へ響也が歩み寄ってくる。一歩、また一歩と距離を詰められ、帆花は瞬く間に響也を見上げる体勢になった。
「こら。道の真ん中でぼーっと立ち止まるな、危ないだろ」
軽く額を小突かれ、魔法が解けたように肩の力が抜けていく。響也に見つめられると、凪いだ海に身を委ねるような心地よさに包まれるのだ。帆花はほっと息を吐いた。
「ごめんね。少し飲み過ぎたかも」
「酔ってるのか? キツイなら俺に寄り掛かってろ」
「大丈夫。でも、まだちょっとふらつくから……駐車場に着くまでの間、袖掴ませてもらっていい?」
咄嗟に吐いた小さな嘘に胸がチクンと痛んだが、響也は少しも疑わず快諾した。「それなら」とごく自然に手を繋ぎ、帆花の歩幅に合わせてエスコートする。妹として肩を並べているのは分かり切っているが、心が浮き立つのを抑えられなかった。帆花が喋らずに済むよう、黙って手を引いてくれるのがありがたかった。
数分後に到着したコインパーキングは薄暗く、自動販売機が設置され、数台の乗用車と配送トラックが駐車している。気品漂うスタイリッシュな黒いセダンが神楽木家のものだ。元々は父の愛車だったが、今は響也が通勤に利用している。帆花が助手席に乗り込み、シートベルトを締めたのを確認した後、響也はエンジンをかけた。
「忙しいのにわざわざ迎えに来てくれてありがとう」
「手間じゃねぇよ。会社から近いからな」
さらりと告げ、ハンドルを操る響也を盗み見る。運転に集中する横顔、少しだけ開いた襟元や、時計をはめた手首、手の甲に浮かぶ太い血管がセクシーだ。いけないものを眺めている気がして視線を窓の外に逸らすと、響也が沈黙を破った。
「お前が飲み過ぎるなんて珍しいな。悩みがあるなら相談しろよ。俺に気遣って何でも自分で解決しようとするから心配だ」
「大丈夫。何もないよ。それに本当に困った時はちゃんと頼るから安心して」
「『大丈夫』ね。いつから口癖になったんだかな……」
静かに呟き、響也は前を向いたまま真顔になった。
「お前に『大丈夫』って言われる度に複雑な気持ちになる。お前が成長していくにつれ俺を頼らずに済む機会が増えるのは当然だし、喜ばしいんだが、物足りない。わがままを言われたいし、うんと甘やかしたくなる。矛盾してるな」
「ふふっ、もう十分甘やかしてもらってるよ」
「そうか? ダメだな、これだから昴に過保護だって茶化されるんだ。頭では分かってるんだけどな。お前はもう大人で、自分の行動に責任を持てるって。父さん母さんが見たら呆れるな。いい加減、妹離れしろって怒られそうだ」
響也の口元に浮かんだ苦笑いに胸が締め付けられる。帆花は膝の上で拳を握り締めた。
「そんなことないよ。大切にしてもらえて嬉しい。だから……いつもありがとう」
ごめんなさいと謝りそうになり、咄嗟に感謝に変え、微笑んだ。あの日の約束を帆花は忠実に守り続けている。それは思っていたよりずっと強い心を持たなければならないことだったが、響也の覚悟と背負うものに比べれば小さなことだ。俯きそうになる時ほど、前を向いていよう――。
信号待ちで停車した瞬間、頭に響也の手が乗る。ぽんぽんと優しく撫でた後、
「頑張る子にご褒美だ。俺が気付かないとでも思ったのか? バーカ。分かりやすいんだよお前は」
からかい口調に似合わない、愛情の込められた声色に胸をくすぐられる。これでも帆花にとっては十分なご褒美だったのだが、響也はそれを上回る素敵な提案をした。
「そういえばお前もうすぐ誕生日だろ。有給取ったからどっか連れてってやる。リクエスト考えとけよ」
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