波立つ感情1



 藤崎と会うことになった二月上旬の週末――その日は午後から雨の予報で、空には厚い雲が垂れ込めていた。陽射しが遮られ、街全体が灰色のヴェールに覆われてしまったかのように薄暗い。

 

 待ち合わせ場所の銀座へ到着すると、バレンタインシーズン真っ最中ということもあり、華やかなショーウィンドウが目を楽しませてくれた。人気の洋菓子店は頻繁に客が出入りしていて、慌ただしい雰囲気だ。


 賑やかな並木通りを抜け、内幸町方面に数ブロック進むと、細い路地に面した日本料理店がある。老舗の趣が滲む外観だが、客を選ぶような敷居の高さは感じられない。


 暖簾をくぐって入店すると、明るい色柄の着物に身を包んだ女性スタッフが快く迎えてくれた。開放的な厨房に面した縦一列のカウンター席、そして通路を挟んだ向かいに4人掛けのテーブル席が3つと、こじんまりした店だ。


 予約の旨を伝えると、最も奥まったテーブル席に案内され、焙じ茶とおしぼりが出された。冷えた手を湯呑で温め数分。カラカラと店の引き戸が開き、20代半ばと思しき美しい女性が現れた。


 彼女は襟元にファーを巻きつけ、淡いベージュのロングコートを羽織り、ショートブーツを履いている。手にしていた長傘を傘立てに差すと店の中を見回し、響也に気付いて嬉しそうに歩み寄って来た。


 「こんにちは! お待たせしてすみません」

 「いえ、俺達も今着いたところです」


 響也が腰を上げたので、帆花も立ち上がった。「妹の帆花です」と紹介され、会釈する。藤崎は輝くような笑顔を浮かべ、


 「あなたが帆花ちゃんね! はじめまして、藤崎香織です」

 「神楽木帆花です。よろしくお願いします」


 挨拶を交わすと、響也がてのひらで着席を促す。帆花は響也と横並びに、藤崎はテーブルを挟んだ向かいに座った。上着を脱いできちんと畳んだ藤崎は、お品書きを手にしてこちらが見やすいように広げてくれる。


 「ここは天麩羅が評判の店で、ランチなら天麩羅御膳がお勧めですよ。大将が厳選した旬の食材に薄く衣を纏わせて、大豆油と太白ごま油をブレンドしたオリジナルの植物油でカラッと揚げてくれるんです。全体的に量は控えめですが、色々なものを少しずつ試せるので満足感があります。よかったらぜひ試してみて下さい」


 すらすら説明され、響也がふっと口角を上げた。 


 「お詳しいですね。以前も利用されたことが?」 

 「ええ、何度か。銀座界隈で天麩羅なら迷わずこちらですね。お気に入りなんですよ。今日、お二人とご一緒できてとても嬉しいです」

 

 朗らかに答えた藤崎は、会話に耳を傾けていた帆花に視線を移す。


 「私、美味しいものに出会ったら感動を共有したくてうずうずしちゃうの。だから今回のお店選びも、神楽木さんにお願いして任せてもらったわ。喜んでもらえる自信があるけれど、もしお口に合わなかったら、食後にとっておきのデザートをご馳走するから許してね」


 茶目っ気たっぷりに肩を竦めた藤崎は魅力的だ。彼女を季節に例えるなら秋だろうか。鮮やかに紅葉した色とりどりの木々、降り注ぐ柔らかな日差し、風に乗って運ばれる金木犀の香り――。側にいるのが心地よくて、自然と気が緩んでしまう。


 スタッフが注文を取りに来て、結局、全員が天麩羅御膳を選んだ。しばらくして小鉢3種とお造り、赤だしのお味噌汁、ご飯、香の物が1人前ずつ長方形の盆に載せて提供された。メインの天麩羅は後に揚げたてを持ってきてくれるらしい。


 いただきます、と箸を持ち上げた帆花は、響也と談笑する藤崎に見惚れた。優しげな眉と、黒目がちの大きな瞳が印象的で、すっと通った細い鼻筋、桜の花びらのような唇が端正な容姿を形作っている。艶やかな黒髪はハーフアップにアレンジされていて、彼女の清楚で上品な雰囲気によく似合っていた。


  (本当に綺麗な人……。それに気配りが上手)


 出会って間もないが、二人の結婚は素晴らしいものになるだろうという予感が胸に閃く。伯父も叔母も、手放しで喜び祝福するに違いない。妹なら、兄が良縁に恵まれたことに感謝すべきだ。けれど波立つ感情は理屈で制御しがたく、どうしても心が塞いでしまう。


 沈みかけた気持ちを懸命に立て直した時、割烹着姿の大将が網付きのトレイで天婦羅を運んできた。わかさぎ、牡蠣、金時人参、牛蒡、ゆり根、せり、蕪――それぞれを菜箸で掴み、白い紙の敷かれた皿に並べていく。「熱いので気を付けてお召し上がり下さい」と言い添えて、厨房へ戻って行った。


 目の前の天麩羅はもうビジュアルだけで美味しいのが分かる。帆花はこくりと唾を飲み込んだ。まずは牡蠣にレモンを絞り、細やかな薄紅の岩塩をつけて口に運ぶ。サクッと軽い衣で包まれた牡蠣は弾力があり、旨味が凝縮している。咀嚼する度に仄かな甘みとミルク感が広がって、思わず頬が緩む。


 「すごく美味しいです……!」


 うっとり舌鼓を打つ帆花をしばし見つめ、響也は愉しげに目を細めた。藤崎は安堵の面持ちで「よかった」と胸に手を当てる。


 「ふふっ、帆花ちゃんはとっても美味しそうに食べるのね。神楽木さんの気持ちがよく分かったわ」

 「兄の気持ち……ですか?」


 きょとんと首を傾げると、藤崎は頷く。


 「美味しいものを食べると帆花ちゃんを思い出すんですって。確かにこんな顔を見せられたら頭に浮かぶし、幸せな気持ちになるわ」


 ね、神楽木さん? と相槌を求められ、響也は照れる素振りもなく「そうですね」と肯定する。涼し気な笑みを返す響也と対照的に、帆花は気恥ずかしさで身悶えた。藤崎と交流するのが目的で催された食事会なのに、つい食べるのに夢中になってしまった。おまけに観察されていたことに全く気付かなかったのだ。


 「すみません。牡蠣に心を奪われて」


 しゅんと肩を縮めると、響也が小さく噴き出した。からかい混じりに笑われ半眼で睨むも、しれっとかわされてしまう。やり取りを見守っていた藤崎はくすくす笑って、


 「そうだ、今日はせっかく帆花ちゃんと会えたんだもの。色々お話ししたいわ。大学では何を専攻しているの? サークルは入ってる?」


 様々な質問を投げかけられ、会話が弾む。藤崎は聞き上手で、どんな話題でも興味深そうに相槌を打ち、楽しそうに笑ってくれる。やがて話の流れで昴の名前が出ると、新たな登場人物に強い関心を示した。響也の大学の同級生で今は同僚だと分かると、ますます興味が湧いたようだ。


 「その『昴さん』とは長いお付き合いなんですね。社会人になると学生時代の友人とは疎遠になりがちですが、同僚でしたらわりと頻繁に顔を合わせる機会があるんじゃないですか?」


 話を振られた響也は、「そうでもないですよ」と肩を竦めた。


 「配属された部署が違いますし、業務上の繋がりもないので社内ではほとんど接点がありません。時々自宅に招いて帆花と3人で食事するくらいです」

 「帆花ちゃんも一緒に……家族ぐるみで親しくしてらっしゃるんですね」

 「はい。ただ最近は俺よりも帆花と仲が良くて、傍目には恋人のようです」

 「まあ!」


 口元を手で覆った藤崎が、キラキラした眼差しで帆花を見つめる。乙女の表情から察するに、ロマンチックな展開を期待しているのだろう。誤解を招く発言をした響也を恨めしく思いながら弁解態勢に入るが、


 「帆花ちゃんは彼のことどう思ってるの?」


 ややテーブルに身を乗り出した藤崎に先手を打たれてしまった。帆花としては、可能な限り自身の恋愛話は避けたい。焦って過剰に反応すれば怪しまれる危険があるので、平静を保ちつつ言葉を選ぶ。


 「――昴さんは私にとって、もう一人の家族のような存在です。空に架かる虹を見上げずにはいられないように、自然と前向きな気持ちにさせてくれる。自信を持たせて、背中を押してくれる。昴さんはそういう、温かくて優しい贈り物ができる素敵な人です」


 尊敬の眼差しで、親愛のこもった笑みを浮かべた帆花に、藤崎は瞠目した。驚きの気配を感じる。何かおかしいことを言っただろうか? 心配になって響也を見遣るも、ポーカーフェイスで顔色が読めない。しかしそこはかとなく苦々しい空気を醸し出している。二人の微妙な反応に不安が募った。


 「あの……ごめんなさい、上手く表現できなくて」


 恐縮して頭を下げると、我に返った藤崎が「とんでもない!」と慌ててフォローした。


 「彼はきっと周りにいる人達に良い影響を与えられる人なのね。そんな風に紹介されたらぜひ会ってみたくなっちゃうな」

 

 言って、素晴らしいアイデアを閃いたかのように「そうだ!」と両手を合わせる。


 「もしよかったら今度4人でお出掛けしませんか?」


 

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