波立つ感情2


 予想外の提案に硬直した。響也は平然としているが、微かに表情が固い。


 「昴と4人でですか」

 「ええ、もちろん皆さんが差支えなければ。日頃の息抜きを兼ねて、冬の鎌倉散歩なんていかがでしょう? 私、喜んでご案内します!」

 「それは……ありがたいご提案ですね。昴は社交的ですし、フットワークも軽いので声を掛ければ乗ってくると思います。帆花、お前はどうだ? また週末になるだろうが、都合をつけられそうか?」


 響也の声色には気遣いが滲んでいた。大丈夫だと答えるべきなのに、戸惑いが強く、即答できなかった。次に藤崎と会う機会があるとすれば、正式な親族顔合わせの席だと思い込んでいたのだ。藤崎が嫌いなわけじゃない。むしろ好ましく思う。ただ、これ以上二人が距離を縮めていく様子を間近で見守るのがとても辛い。


 「大学を卒業したらなかなか気軽にお友達と会えなくなるし、一緒に過ごす時間を大切にしたいわよね。それに社会人になる準備で色々忙しいでしょう。無理はしないでね」


 迷いを察した藤崎が、やんわり逃げ道を作ってくれる。思いやりのある大人の対応に、改めて素敵な女性だと身に染みる。帆花は意を決して口を開いた。


 「実は近々昴さんと会う約束があったので、上手く調整できないか考えていたんです。鎌倉、ぜひ案内して頂きたいです。帰ったらさっそく相談してみますね」


 明るい笑顔を向けられ、藤崎はほっとしたように微笑んだ。話がまとまったところで響也が別な話題を切り出し、和やかな雰囲気で食事が進む。


 満腹になり、食後のお茶で一息吐く頃、腕時計の針は14時を指していた。響也がまとめて会計を済ませて店を出ると、藤崎は恐縮して肩を縮めた。


 「私までご馳走になってよかったんでしょうか。前回も含め、出して頂いてばかりで申し訳ないです」

 「気にしないで下さい。良い店を紹介して頂いたお礼ですよ。それにお誘いしたのはこちらです」

 

 穏やかに応え、彼女の背に手を回した響也はすっと歩道側へ誘導する。駅に向かって歩き始めた響也の側を通り過ぎた大学生くらいの女性グループが、羨望の眼差しでチラッと振り返るのを帆花は目撃した。


 響也は容姿端麗な上、様々な面で卒がない。丁重な扱いを受けた女性は感激し、たいていは舞い上がってしまうだろう。隣で肩を並べる藤崎の嬉しそうな顔がそれを物語っている。響也に惹かれているのは一目瞭然だ。


 (でも藤崎さんだけじゃない。会社の人たちだって放っておかないよね……)


 狭い通りでの横並びを避け、邪魔にならないよう、二人の数歩後ろについた帆花はこっそりため息を吐いた。


 響也が就職して以来、バレンタインデーには毎年抱えきれないほどチョコレートを貰って帰ってくる。しかも年々量が増えていて、この数年はやむなく紙袋を持参させているくらいだ。それでも響也は仕事一筋の様子だが、学生時代には恋人がいたのに勘付いていた。ただ会う機会がなかったため、帆花にとっては想像上の存在でしかなかった。魅力的な藤崎に対し、全く気負わずエスコートできる姿を目の当たりにして初めて、過去の恋人達の存在を実感させられた。


 チリンチリン、と自転車のベルが鳴り、我に返ると同時にぐいっと強めに腕を引かれた。咄嗟に引き寄せられ、驚いて見上げると、響也が眉間に皺を寄せてこちらを見下ろしていた。


 「ぼーっとすんな。気を付けろ」

 「う、うん」


 腕を解放され、早鐘を打つ心臓を押さえた。藤崎と会話していたのに、こちらへの注意も怠らなかったらしい。自分の不注意を反省しつつ、響也が気に掛けてくれていたことが嬉しくて、口許が緩む。



 それから5分ほど歩くと、地下鉄銀座駅に繋がる出入り口に到着した。階段を下る途中、藤崎が「あっ」と声を漏らし、先頭にいた響也が振り向く。


 「どうしました?」

 「私、さっきのお店に傘を忘れたみたいです。雨が降ってなかったからうっかりして……。すみません、取りに戻ります。お待たせするのは申し訳ないので、ここで解散しましょう」

 「それなら俺が行きますよ。どんな傘ですか?」


 藤崎は僅かに逡巡し、傘の特徴を口にした。響也は「分かりました」と頷く。


 「すぐに戻ります。帆花と改札で待っていて下さい」


 すれ違いざまに藤崎の肩をポンと叩き、颯爽と階段を駆け上がっていく。響也の後ろ姿が見えなくなるまで見守っていた藤崎は、帆花に視線を移す。


 「ごめんなさい、私の不注意で」


 しゅんと項垂れる藤崎の気持ちを軽くしようと、緩やかに首を横に振った。


 「響ちゃ…、兄は足が速いんですよ。あっという間に戻ってきますから、改札で待ちましょう」


 帆花の笑顔は温かく、見る者を和ませる不思議な力がある。藤崎は感謝を込めて笑みを返し、共に改札へ移動した。券売機の隣の空いたスペースで立ち止まると、帆花のショルダーバックの取っ手で揺れるストラップに目を留め、よく見ようと身を屈めた。


 「そのストラップ、もしかして神楽木さんのお土産?」

 「あ、はい。天然石にお詳しい藤崎さんが色々助言して下さったと聞きました。とても綺麗で気に入っています。ありがとうございます」

 「ふふっ、どういたしまして。神楽木さん、それを選ぶ時とても優しい目をしていたわ」


 思い出すように瞑目してふと、謎が解けた面持ちで瞳を開く。


 「知ってるかな? その中央にある緑の石はエメラルドで、神楽木さんの誕生石よ。どうして帆花ちゃんの誕生石にしなかったのかちょっと不思議だったんだけど、何となく理由が分かったわ。石に願掛けしてるんじゃないかしら」

 「願掛けですか?」

 「ええ。『離れていてもあなたを守る』、そんなメッセージを感じるわ。愛されてるわね。ちょっと羨ましいくらい」


 耳の後ろに髪を流した藤崎が、柔らかく目を細める。帆花は胸に温かいものが宿るのを感じながら、同時に込み上げた切なさで喉の奥が引き攣れた。


 「……兄は保護者として私を守ることに、使命感のようなものを抱いてるんだと思います」


 俯いた帆花の肩にそっと藤崎の手が乗る。顔を上げると、優しい眼差しが注がれていた。


 「詳しい事情は知らないけれど、神楽木さんは純粋にあなたを愛してるんだと思うわ。きっとこれまでお互いを支えに数えきれない困難を乗り越えて、喜びを分け合ってきたのね。想い合う絆の強さが伝わってくるもの」


 一旦言葉を切り、藤崎はしみじみとした口調で続ける。


 「私、神楽木さんとの出会いに感謝してる。もちろん帆花ちゃんとのご縁もよ。私は一人っ子で、ずっと兄弟に憧れていたの。帆花ちゃんみたいな可愛い妹ができたらとっても素敵」

 「藤崎さん……」

 「ふふっ、私ったら気が早いわね。でも、『そうなれるよう頑張ってみる』って言ったら……応援してくれる?」


 真剣な表情に、ドクっと心臓が跳ねる。呼吸を忘れたその時、


 「――お待たせしました。こちらで合ってますか?」


 傘を掲げた響也が戻ってきた。藤崎は丁寧に感謝を告げて受け取る。乱れた前髪を無造作に掻き上げた響也は、走ってきたというのにほとんど呼吸が乱れていなかった。


 「雨が降る前に気付いてよかったです。あなたを濡れて帰すわけにはいかないので」


 涼やかな笑みでさらりと告げられた藤崎の頬がうっすら紅色に染まる。こうして無自覚に人の心を攫っていくのは反則だと帆花は内心苦笑する。藤崎は名残惜しさを断ち切るように、改まってお辞儀した。


 「今日はとても楽しかったです。ありがとうございました」

 「こちらこそありがとうございました。気を付けてお帰り下さい」

 「はい、お二人も。じゃあ、帆花ちゃんまたね」


 胸の前で小さく手を振り、改札を通った後でもう一度振り向き会釈する。彼女が人混みに消えるまで見送った後、響也は短く息を吐き、帆花に向き直った。


 「付き合わせて悪かったな。他に寄りたい場所はないか? 一緒に行くぞ」

 「ううん、大丈夫。銀座ならいつでも来れるし。私達も家に帰ろう」


 バックの中を探って定期入れを取り出し、ピッと改札を通った。エスカレーターでホームに向かい、電車を待つ人の列に並ぶ。やがて電車の到着を知らせるメロディが流れ、地下トンネルの奥から徐々に風が吹き込んできた。


 頭の中で藤崎の声が響く。


 『応援してくれる?』


 響也が戻らなければ何と答えていただろう?


 (考えるまでもなく、選択肢はひとつだよね……)


 人知れず唇を噛んだ。どうにもならないと分かっていて、様々な想いが洪水のように押し寄せて眩暈がする。乱雑に塗られたキャンパスのように胸が騒めき、息が苦しくなった。けれど響也の幸せを願うなら、取るべき行動は決まっている。


 前を向いていた響也の肩をちょんと指で突き、注意を引いた。


 「ねえ響ちゃん。藤崎さん、素敵な人だね。すごくお似合いだと思う」


 屈託のない笑顔を向けられた響也は、虚を突かれたように目を見張った。ほんの数秒、帆花の言葉を噛み締めるような間があり、漆黒の双眸が深みを増す。


 「……お似合い、か」


 自問に近い小さな呟きは、電車がホームに入ってきた音に掻き消された。帆花は風圧でなびく髪を押さえ、体を寄せる。


 「なぁに? 聞こえなかった」


 訊き返したが、響也は微かに口角を上げただけで視線を逸らした。電車の扉が開き、ぞろぞろ人が降りてくる。響也の腕が伸びてきて、ぶつからないようガードしてくれる。


 「離れるなよ」


 優しい口調だったが、有無を言わせない響きがあった。帆花は頷き、響也の腕に手を添える。発車ベルが鳴り、急いで混雑した車内に乗り込むと、背後で扉が閉まる。向き合う体勢で響也を見上げ、距離の近さにドキッとした。俯くと、発車して間もなくカーブに差しかかった車体が大きく揺れる。掴まる場所がなくて冷やっとした途端、抱き寄せられて鼓動が跳ねた。


 「……っ、ありがとう」


 響也の胸に顔を埋めたままお礼を伝えると、背中に回された大きな手に力がこもる。


 「……一駅の辛抱だ。このまま俺に寄りかかってろ」


 頭上から降ってきた囁きは、甘やかすような声色で。頰が熱くなり、とても顔を上げられなかった。大人しく響也に身を預けると、包み込む気配が一段と柔らかくなる。守られている安心感は絶大で、張り詰めていた神経が和らぎ、自然と肩の力が抜けた。

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