春の足音2
デザートビュッフェを堪能した後、青海駅に移動する頃には夕方に差し掛かっていた。眩かった陽光はすっかり和ぎ、暖色を帯び始めた空が臨海地区の風景に柔らかな彩りを与えている。
青海駅直結のパレットタウンは広大な敷地を有する複合型商業施設で、パレットプラザと呼ばれる多目的広場を中心に様々な施設が集まっている。東京の名所を一望できる大観覧車や、世界最大級のライブハウス、クルマの体験型テーマパーク、18世紀ヨーロッパの街並を模したショッピングモールなど、見所が盛り沢山だ。
改札を出て広場に向かうと、新人アイドルらしき女性グループによるミニライブの真っ最中だった。大勢の観客の前で元気に歌って踊り、四方八方から歓声が上がっている。休日らしい賑わいぶりだ。
「やっぱりどこも混んでるな。計画を立ててきて正解だった」
「何を見るかもう決めてあるの?」
「お前が気にしてたデジタルアートミュージアムのチケットを購入してある。これならスムーズに入館できるだろ。興味があるなら行ってみるか?」
「わぁ、ありがとう! ぜひ行きたい!」
響也の提案は大いに心を弾ませた。いつか行ってみたいと話したのは一度だけのはずなのに、ちゃんと覚えていて、準備してくれたことがとても嬉しい。
大観覧車の真下に施設を構えるアートミュージアムに入館すると、右側にインフォメーションがあり、当日チケット販売機の前には長い列ができていた。付近には無料のコインロッカーが設置され、ベビーカーやスーツケースを置くスペースも用意されている。来場者が気軽に荷物を預けて楽しめるよう配慮しているのだろう。
今訪れている場所、"チームラボボーダレス"は境界のない1つの世界の中でさまよい、探索し、発見する――をコンセプトに設立された最新鋭のデジタルアートミュージアムだ。それぞれの作品が部屋から飛び出して他の作品と影響し合い、混ざり合うのが特徴的で、多様な作品群には境界がなく、連続してつながっていく世界に没入できる。複雑で立体的な世界をリアルに体感できると、SNSでもずいぶん話題になった。
混雑の中、予め入手した券のおかげですんなり展示エリアに入れた帆花は改めて響也に感謝を伝えた。
「館内10,000平方メートルに約50作品だって。想像以上に広いね! とても1日じゃ見切れなそう。常設作品の他に季節に合わせた期間限定の展示もあるみたい」
「それなら優先順位の高い場所に絞って回るか。大きく分けて5つの世界に分類されてるみたいだが、気になるエリアがあるか?」
「うーん、Borderless Worldとランプの森かな。写真で見たらとっても素敵だったの」
「決まりだな。中はかなり暗いし、足場が不安定な場所も多いから気を付けろよ。しっかり手握ってろ」
差し伸べられた手を握ると、隣にぐっと引き寄せられて鼓動が跳ねた。"守られている"と安心する力強さで繋がれた指先から伝わる響也の体温が愛しい。
館内は決められた順路やマップがなく、自らの足で探索し、様々な発見をするという冒険心くすぐられるスタイルで、響也と肩を並べて歩くだけで楽しかった。
癒やしの音楽の響く方へ進んでいくうちに”花と人の森”に辿り着き、中に足を踏み入れた途端、帆花は異世界に迷い込んだような衝撃を受け、息を呑んだ。
床と壁の境目さえ曖昧な空間で、一面に広がる色鮮やかな光が創り出す幻想的な美。コンピュータープログラムによってリアルタイムで描かれ続けるのは、視界を埋め尽くすほどの花だ。
1年間の花々が移ろう季節に合わせてゆっくり変容し、人が動かずにいるとその付近により多くの花が生まれて咲き誇る。けれど花に触れたり、踏んでしまうと、一斉に散って枯れる。瞬く間の儚い美しさと、循環する生命の力強い輝きが同居する不思議な空間だった。
「すごい……! 現実感がなくて夢の中にいるみたい」
「そうだな。この感動は写真じゃ味わえない。お前と一緒に来れてよかった」
実感のこもった声が耳に流れ込んできて、心の一番柔らかい部分に触れる。繋いだ手にきゅっと力を込めると、同じ強さで握り返してくれる。それだけで胸に込み上げるものがあって、瞼の裏がじんわり熱くなった。
美しいものに出会い胸を打たれた瞬間、隣に愛しい人がいて、共有してくれる。それはとてつもなく幸せで、奇跡のように尊かった。響也が自分に与えてくれる深い喜び――その半分でも返せる存在になれたなら、どれほど素晴らしいだろう。
「――どうした。疲れたか?」
気遣わしげに顔を覗き込まれ、喉を焼く切ない想いを飲み下した。余計な心配をかけないよう、大丈夫と明るく笑ってみせる。
「あんまり綺麗だったから思わず見惚れちゃっただけ。私は十分満足したし、響ちゃんがよければ次の作品を見に行こう」
響也の了解を得て次の展示室を目指すうち、この不思議な世界が縦横無限に続いているような錯覚を起こした。Borderless Worldと呼ばれるエリアの作品はそれぞれの展示場所が決まっているものの、壁やドアなど各空間を完全に隔てるものがないため、美しい映像は境界に囚われることなく自由に移動する。
いくつかの作品を鑑賞した後、立体的に表現された悠久の里山の風景を前にした時はかなり圧倒された。ミュージアムの中で最大級の広さを誇るエリアにあるこの作品は"人々のための岩に憑依する滝"と名付けられ、上にあるフロアの谷に流れ込む水が滝となって流れ込んでくる。
仮想の三次元空間の奥に佇む立体的な岩に落ちてくる滝がぶつかり、周囲に広がっていく。岩の上に人が立つと水の流れは変わり、岩に近付く人が増えるほど花が咲き誇る。他の空間から鳥が入ってくると、風に吹かれたように花が散る。
「見て、壁に浮かんだ『虹』の文字に触れたら変化が起きたよ! 作品の中に虹が架かった」
「はは、遊び心があるな。さっき壁を伝う滝の水に触れたら手を避けていったぞ。足元を流れる水も同じだ。障害物を避けていく動きが滑らかで本物みたいだな」
人が触れると作品に変化が生じて、その小さな波紋が周囲に広がりさらなる変化がもたらされる。鑑賞するだけではなく、作品の一部として参加できるのが嬉しかった。
上機嫌のまま、次に訪れた展示室では無数のLEDライトが天井から吊るされていた。青白く輝く光の世界に吸い込まれたようで目が眩む。クリスタルワールドと呼ばれるこの作品は、光の立体物の集合体で宇宙を表現しているらしい。
「ここでは専用アプリを使って作品に参加できるぞ。試してみるか?」
「そんなことができるの? やってみたい!」
興奮を隠さずスマホを手に構えると、既にアプリをダウンロードしていた響也が自分のを貸してくれた。触れてしまいそうな距離のクリスタルにぶつからないよう注意し、液晶画面に視線を落とす。
さっそくアプリを起動すると、造形文字のようなイラストが複数表示された。試しに『雨』のような文字を選んでスワイプしたところ、たちまちスコールが降るような光の演出が起きた。
「これ楽しいー! 魔法使いになったみたい。選ぶ文字で反応が変わるのかな? 響ちゃんもやってみて」
隣にいる響也を見上げるのと、響也がスマホを覗き込むタイミングが被った。至近距離で視線が交わり、ドッと鼓動が高く跳ねる。黒曜石の瞳に映り込んだ光の粒が瞬き、星のように煌めいていて呼吸を忘れた。
数秒見つめ合った後、響也が先に動いて帆花が持つスマホに手を伸ばした。適当な文字を選んで指先を滑らせると、再び頭上から光の雨が降ってきて、流星群の中にいるようだった。
「光のシャワーを浴びてるみたいだな。――目が眩むような満天の星空をお前に見せたくなった」
よく通る涼やかな声が耳朶を打ち、性懲りもなく胸が鳴る。
「響ちゃんが隣にいてくれるなら、そこが世界で一番素敵な場所になるよ」
素直な気持ちを口にして正面から向き合うと、微かに瞳を瞠った響也は少しだけ照れ臭そうに瞼を伏せ、同意を込めて頷く。
「確かにお前が隣にいる時は、周りにあるものが輝いて見える。それでも俺はわがままだから、願っちまうんだ。世界中の綺麗なものを全部お前に見せたいって。もはや生き甲斐だな。お前を喜ばせた時、何より幸せを感じる」
そっと手が伸びてきて、優しく頰に触れる。丸みを帯びた頬から顎先までを辿ると、名残惜しそうに離れていく。叶うならその手を引き留めて、響也に抱き着きたかった。
2人で共に歩む未来への期待が胸に明かりを灯し、とっておきのプレゼントを開ける前のような、幸福な緊張感が体の隅々に行き渡る。響也の言葉に深い意味などないと自分を戒めながら、春風に抱かれるようなふわふわした浮遊感を完全に消し去ることはできなかった。
館内に設けられた休憩室で一休みし、体力を回復した後、最も楽しみだったランプの森に向かった。人気作品のため展示室にいられる時間には限りがあり、交替制で鑑賞する仕組みになっている。順番に従って部屋に通されると、ため息が零れるほどロマンチックな世界が広がっていた。
全面マジックミラーの空間に灯る無数のランプは、おとぎ話のように幻想的だ。
ランプの前で立ち止まりじっと観察していると、最も近いランプが強く輝いて音色が響き、驚いた。ランプの光は近くのランプへと次々伝播し、伝播したランプは呼応するように光り輝いて音を奏でていく。
ガラスのランプに光が灯り、一筆書きのように色が変化していく光景は鳥肌が立つほど綺麗で、魅了されずにいられなかった。
(言葉にならないこの感動を、響ちゃんと共有したい)
後方にいる響也を振り向いた時、周囲の音が頭の中で掻き消えた。光が瞬く世界に佇む響也の姿に心を奪われる。教会の薔薇窓に降り注ぐ、静謐な光のような神聖さに、鮮やかな美しさに――――痛いほど胸を打たれて動けなかった。
こちらの視線に気付いた響也は纏う空気を綻ばせ、口許に笑みを浮かべる。見守るような眼差しは穏やかで、表情に滲む確かな愛しさに、心の奥がぎゅっと引き絞られた。
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