春の足音3


 デジタルアートミュージアムで充実した時間を過ごし、外に出ると、太陽の代わりに月が輝いていた。日中の海辺は爽快で心地良かったが、ビロードの幕が下りた舞台のようにしっとりした雰囲気が漂う夜も素敵だ。カラフルなイルミネーションでライトアップされた大観覧車を見上げると、ファンタジックな夜の遊園地に迷い込んだみたいでわくわくした。


 お台場のシンボルであるパレットタウンの大観覧車は、高さ115メートル、直径100メートルと日本最大級の規模を誇り、64基のゴンドラのうち4基は床や座席が透明になっていて、足元からも夜景を楽しめる。東京タワー、スカイツリー、東京ゲートブリッジ、レインボーブリッジと、東京名所の2つの塔と2つの橋を一望できる人気の眺望スポットだ。


 (観覧車から眺める夜景は綺麗だろうなぁ)


 単純に乗ってみたいが、列に並ぶ客のほとんどがカップルで何となく気が引ける。それに今日は午前中からあちこち回って、たくさん良い思い出を作ってもらった。


 「くしゅんっ」 


 冷たい風が首元を掠め、くしゃみが出た。小さく身震いし、肌寒さを感じて腕をさすると、両肩にふわっと上着が掛けられた。


 「その格好じゃ冷えるだろ。帰るまで着とけ。貸してやる」

 「え、それじゃ響ちゃんが寒いよ。私は大丈夫!」

 「たった今くしゃみしたろうが。いいから言うことを聞け。風邪引いたらどうする。そのまま羽織ってろ」


 こういう時の響也は頑として譲らない。申し訳なさを感じつつ、素直にお礼を告げた。借りた上着はサイズが大きく、響也の香りと体温が移っていて胸がときめいた。


 (本当はもう少しここで一緒にいたい)


 帰りたくないのは、今日が終わってしまうのが寂しいからだ。月末には日本を発ってしまう響也とこんな風に過ごせる時間は残り僅かで、それさえも刻一刻と削られていく。込み上げる切なさをぐっと堪えていると、細かな表情の変化に気付いた響也が観覧車を指差した。


 「ついでに乗ってくか? 高いところ苦手じゃないよな」


 願望を見抜いたように提案され、驚きつつ、ぱっと顔を輝かせる。


 「っ、いいの? 嬉しいけど、帰りが遅くなっちゃうよ」

 「かまうか。お前と過ごせる貴重な休日だ。存分に楽しもう」


 ポンと頭を撫でられ、沈みかけていた気分がふわっと浮上した。響也とのお出掛けが続くことが嬉しくて、つい頰が緩む。



 係員に従いゴンドラに乗車すると、頂上に向かってゆっくり動き出し、どこに何が見えるという音声ガイドが流れ始めた。ほとんど頭の中に入ってこなかったのは、数多の光で構成される幻想的な夜景に静かな感動を覚えたからだ。


 漆黒の空を背景に煌めく高層ビル群の光は、無数に散りばめられた宝石のようだった。白く浮かび上がる首都高――その上を車が走行する様子を目で追いながら、点々と続く淡い緑の道路照明を辿る。色とりどりの光が水面に反射された光景は息を呑むほど美しく、外気の冷たさが遮断されたこの小さな空間は、現実から切り離された鳥籠のように思えた。


 「一周約16分だって。けっこう長いけど、夜景を眺めてたらあっという間だね」


 窓に手を張り付けて熱心に夜景を眺めていると、向かい合わせに腰掛ける響也がふっと笑みを零した。


 「今日は色んな場所を巡ったな。疲れただろうが、楽しかったか?」

 「もちろん楽しかったよ! それに……夢みたいだった。響ちゃんとは何度もお出掛けしてるけど、今日はいつもと少し過ごし方が違って、デートみたいでドキドキした」


 幸福な記憶を噛み締めながら、両手を胸の前で重ねる。


 「――ありがとう。今日は私のために付き合ってくれたんだよね? 告白した時、気持ちを否定せずに受け止めてくれただけで十分報われたけど、とっておきのプレゼントを貰った気分。たとえ響ちゃんが私の想いに応えられなかったとしても、いつか今日を振り返った時、悲しい思い出にならないよ」


 確信を込めて晴れやかな笑みを浮かべると、響也は微かに瞳を瞠った。思いがけない反応だったのだろう。けれど告白の返事を聞く前に、これだけは伝えておきたかった。答えに関わらず、前向きに受け止める覚悟があることを。


 人は想いが受け入れられなかった時、相手が自分にとって大切な存在であるほど深く傷付く。それは相手も同じで、想いを返せないことに胸を痛め、どんな言葉で伝えても変わらない辛い事実を突きつけなければならない。その点、返事をする方が酷な立場に置かれる。ネガティブな答えを告げるのは想像以上にエネルギーを消費し、精神を疲弊させるものだ。


 (響ちゃんにかかる心の負担を少しでも軽くしたい。私にできることがあるとすれば、泣いたり取り乱したりせず、静かに現実を受け止める覚悟があるって伝えることくらいだ)


 全く期待していないといえば嘘になるが、想いが通じるのはほんの僅かな可能性しかない。今日までの響也の態度を思い返せば、やはり妹以上に思われてるとは到底自惚れられなかった。けれど――


 「……お前はこんな時さえ自分より俺を気遣うんだな」


 眩しげな眼差しを向けられてドキッとした。響也の面持ちは、保護者とは異質の何かを期待させて落ち着かなくなる。


 「お前は自分のことを平凡で、特別な力を持たないと言っていたが、そんなことはない。少なくとも俺にとっては誰より影響力のある、眩しくて尊い存在だ。本当はこの後伝えようと思ってたんだが、すごく大事な話があるんだ。……聞いてくれるか?」


  醸し出す雰囲気から、告白の返事だと察して一気に緊張が高まった。気を引き締めて神妙に頷くと、響也は意を決した表情で続けた。


 「まずは報告だ。藤崎さんとの縁談は丁重にお断りした」


 いきなり衝撃を受けて言葉を失う。縁談が白紙に戻ったと知って安堵すると同時に、憂いが胸に渦巻いた。


 「それは本当に響ちゃんの意思なの?」


 自分が想いを伝えたせいで躊躇させたんじゃないか。結ばれるはずだった縁を無理矢理断ち切ったんじゃないか。後ろめたい感情に苛まれていると、懸念を否定するように「もちろん俺の意思だ」とはっきり告げられた。


 「客観的に見て、藤崎さんは結婚相手として申し分ない人だ。穏やかな人柄で一緒にいるのが心地良かったし、時間をかければそのうち自然に惹かれると思った。だけど結局、心が動かなかった。彼女に好意を寄せられてると気付いた時も、直接伝えられた時でさえ、頭の中は冷静だった。俺が返事を先延ばしにしたことで中途半端に期待させて申し訳なかったが、断ること自体に迷いは生まれなかった。自分の中にいる、特別な存在に気付いたからだ」


 帆花は息を呑んだ。響也には他に心に決まった女性がいる。その事実に激しく打ちのめされ、動揺を抑えきれなかった。膝の上で拳を握り締め、懸命に平静を装っていると、


 「今日は大げさなくらい態度を変えてみたんだが、その様子じゃ全然伝わらなかったみたいだな」


 残念そうに苦笑した後、黒曜石の双眸が強い光を帯びてこちらを見据えた。

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