Sweet Home



 麗かな陽射しが差し込むリビングに漂う、ハーブティーの香り。ガラスのカップの中で揺らめく黄金色のお茶を口に運ぶと、カモミールの優しい風味が広がり小さな笑みが零れた。


 ソファで寛ぎ、ローテーブルの上に重ねたアルバムのひとつを丁寧に開くと、響也と共に撮った思い出の写真の数々が目に飛び込んでくる。幸福を噛み締めながらゆっくりページを捲っていると、響也が隣に腰掛けてきた。


 「またアルバムを見てたのか? 本物がここにいるのに、ちょっと妬けるな」


 冗談交じりに拗ねたような声で肩を抱かれ、


 「幸せな時間を記録に残しておけるのが嬉しくて。でも、もちろん本物が一番だよ」


 愛しさを込めて頰にキスを贈ると、すぐに機嫌を直してくれた。お返しのように額に寄せられた唇に、胸がキュンとする。


 お互いの左手の薬指にはめられたプラチナリングはまだ真新しく、これから年月を重ねて風合いを変えていくのが楽しみだ。



 NYに異動して約2年後――――宣言通り速やかに実績を上げて帰国し、再び東京勤務となった響也はこの家に帰ってきた。そして新たな生活が公私ともに落ち着く頃、2人で伯父に会いに行き、結婚の意向を伝えた。


 伯父ははじめとても驚いたが、お互いの気持ちと結婚に辿り着いた経緯を伝えると、意外にもあっさり認めてくれた。他方、以前響也に見合いを勧めた伯母は表立って反対しなかったものの、他の親族の目や世間体を気にしてあまりいい顔をしなかった。それ以降、響也は仕事で忙しい合間を縫って何度も伯父宅に足を運び、伯母が納得するまで対話を続けたのだ。


 「色々あったけど、最後にはちゃんと認めてもらえてよかったね。根気強く説得してくれた響ちゃんのおかげだよ」

 「祝福されない結婚は人間関係に影を落とすからな。俺はお前に肩身の狭い思いをさせたくなかった。それだけだ。それにまぁ、伯父さんたちは後見人みたいなもんだったしな。筋を通しておくべきだろ? 予定より少し時間がかかったが、祝福される形で籍を入られてよかった」


 結婚が決まった時、"守る"というのはけして経済面に限った話じゃなく、相手が心身共に健やかに毎日を送れることだと響也は言っていた。その言葉の意味を本当の意味で理解した時、大きな幸せに包まれて、とても頼もしかったのを覚えている。


 「結婚してからもずっと、響ちゃんは私のことを大切にしてくれる。それがすごく嬉しくて、何より幸せだよ」

 「はは、まだ入籍して3ヶ月だぞ。これからもっと幸せな時間を味わわせてやる。お前が隣にいない生活なんて考えられないからな。俺から離れられないよう、しっかり掴まえておく。たとえばこんな風に――……」


 ふっと顔に影が落ち、唇が重なった。腰に腕を回されて、ぐっと身体を引き寄せられる。


 小鳥が啄むような優しいキスから始まり、次第に熱を帯びてきた唇が、角度を変えて何度も求めてきた。


 深まる口づけの合間に零れる吐息は艶っぽく、こちらを見つめる眼差しに色香が宿るのを見て、鼓動が跳ねる。毎夜のように訪れる、甘く濃密なひとときが脳裏をよぎり、顔が熱くなった。白い頬が、首元が、意図せず紅潮する。


 「大好き……」


 自然に潤んだ瞳で響也の名前を呼ぶと、頭の中を見透かしたように悩ましい声が叱責する。 


 「バカ。煽り過ぎだ」


 ソファの肘掛を背に押し倒されて、キスの雨が降る。やや強引に唇を奪われているのに、体に触れる手つきは宝物を慈しむようで。このまま響也の腕に抱かれたい衝動に駆られたが、理性を総動員してストップをかけた。


 「午後から来客があるから、そろそろ支度しなきゃ」


 首筋を辿っていた唇がぴたりと止まる。数秒後、響也は溜め込んだ熱を逃がすように息を吐き、前髪を無造作に掻きあげて体を起こす。


 「――そうだった。もっとお前といちゃつきたいところだが、夜までお預けだな」


 腕を引いて起こされ、ドキドキしつつ、ちょっとだけホッとする。一瞬浮かべた安堵の表情を見逃さなかった響也は黒曜石の双眸を細め、軽く額を小突いてきた。


 「油断するなよ。焦らした分、たっぷり充電させてもらうから覚悟しておけ」

 「!!」


……今夜は確実に寝不足になる予感がする。



 昨晩のうちに仕込んでおいた料理を温め直し、皿に盛りつけていると、インターホンが鳴った。約束の午後1時を10分ほど過ぎての到着に、"彼"らしい気遣いを感じる。


 「いらっしゃい昴さん!」


 玄関へ急ぎ、朗らかな笑みで出迎えると、昴はいつもの穏やかな笑みで応えてくれた。招待に礼を告げつつ、「とびきりのワインが手に入ったから一緒に楽しもう」と携えていた紙袋を胸に掲げる。


 「この間の結婚式以来かな。少し会わない間にまた綺麗になったね」

 「ふふ、ありがとうございます」


 ほのぼのした空気が二人の間に漂った瞬間、響也が鋭い目つきで割り込んできた。   


 「おい昴。呼んだのは俺だがな、人の嫁を目の前で堂々と口説くんじゃねーよ」

 「あれ? 目につかない場所の方がよかった?」

 「なわけないだろ! わざと神経逆撫ですんなドアホ!」


 恒例のコミカルなやり取りが楽しい。テンポのいい会話を微笑ましげに見守りつつ、家の中に案内した。


 昴とは付き合いが長く、彼は良い意味で自宅のように寛いでくれるので、離れて住む家族が帰ってきてくれたような心地がして嬉しくなる。


 三人で和やかなひとときを過ごしているうち、もう一度インターホンが鳴って伯父と伯母が到着した。


 「遅れてすまないね。早めに家を出たんだが、思ったより道が混んでてな」

 「いえ、無事に到着できてよかったです。ささやかですがダイニングに食事を用意してあるので、一緒に食べましょう」

 「ありがとう。帆花ちゃんの手料理か。楽しみだ」


 頰を緩める伯父にくすっと笑みが零れた。伯母は晴れやかな表情で手土産を差し出し、


 「実は私も帆花ちゃんのごはんを楽しみにしてきたの。でも5人分の食事を用意するのは大変だったでしょう? 片付けは私に任せてね」

 「ありがとうございます。手伝って頂けると助かります」


 このちょっと不思議な面子による食事会が企画されたのは、帆花と響也の結婚式がきっかけだ。


 響也の父に風貌のよく似た伯父を見て、親近感を抱いた昴が声を掛けたところ、伯父は聡明な好青年の昴をいたく気に入り、共通の趣味であるチェスの相手を願い出たのだ。普通なら社交辞令で流れてもおかしくない話だが、昴は響也の親友であり、帆花とも親しい。たまに神楽木家で食事会を開いていると知った伯父が今回参加を表明し、機会を合わせ、皆で集まるイベントが実現した。 


 少し遅めの昼食会は和気あいあいとして、とても楽しかった。食後、リビングに移動してコーヒーを運ぶと、伯父と昴は念願のチェスで対戦し始め、伯母はキッチンで片づけを手伝ってくれた後、アルバムに目を留めて見たいと申し出た。観賞中、頻繁に解説を求められる響也はパワフルな伯母を相手に押され気味で、ちょっと可愛かった。


 ふと、ガラス越しに広がる庭に咲き誇る花をリビングに飾ろうと思いつき、席を立つ。庭に出ると、青空の下でそよ風に揺れる花達の芳しい香りが鼻腔を満たした。


 花壇を埋め尽くす鮮やかな紫のラベンダーに、赤とピンクが混ざった愛らしいチューリップ。森の妖精のような、澄んだブルーのネモフィラは大きくこんもりと成長し、寄せ植えの鉢から零れ落ちそうになっている。枝垂れるペチュニアは大輪のものや八重咲きなど複数の種類があり、春の庭を優しい色で彩っていた。


 しばらく佇み豊かな庭を眺めていると、帆花と呼ばれて振り向く。


 「どうした? 何かあったのか?」

 「ううん、ちょっと花をね――……」


 遮るようにざあっと嵐のような風が吹いて、色とりどりの花びらが空を舞う。こちらを見つめる愛しい人と、リビングで笑い合う大切な人たちの姿が一度に目に入ってきて、震えるような幸福感が胸に広がった。


 「また皆で集まれるといいね。来年も、その次の春もここで」


 花が咲き綻ぶような笑顔を向けられ、響也が一瞬目を瞠る。けれどすぐに慈愛のこもった眼差しを返し、眩しい笑みを零す。


 「ああ、いつでも二人で迎えよう」


 気付かないうちに、響也のいる場所が自分の帰る場所になっていた。響也にとってもそうでありますように。


 雨の日も、風の日も、胸に消えない明かりを灯そう。そして生まれた温もりを、大切な人たちと分け合いたい。――誰よりも愛しいあなたの隣で、ずっと。 



 (fin)

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