プロローグ4


弱音を吐かない響也が自分に気を許し、甘えてくれるのが嬉しい。平常より速い鼓動を刻む心臓が小さく震えた。響也のささやかな願いを叶えない理由がない。肩の力を抜いて響也に身を寄せると、二人の間に心地いい沈黙が流れる。


そのまま5分ほど経過した後、響也はゆっくり姿勢を正した。離れていく温もりが名残惜しくて、帆花は寂しさを隠して笑った。


「もういいの?」

「ああ、十分回復した。ありがとな」


響也は唇の端を上げると、帆花の頭に手のひらを乗せ、くしゃっと撫でた。はにかんだ帆花を見つめる響也の表情がふと真剣になる。帆花は首を傾げた。


「どうかした? ……っ」


突然、目の下の隈をそっと親指でなぞられ、呼吸を忘れた。帆花の頤を上向かせた響也は顔色を窺う。


「肌、青白いな。唇も荒れてる。このところまともに食事摂れてなかったろ。少しは眠れてるのか?」

「う、うん」

「そうか。色々やることがあったとはいえ、心細い時にあまり側にいてやれなくて悪かった。俺にして欲しいことがあれば遠慮するなよ。お前は相手の負担になると思うと我慢する癖があるから、一人で抱え込まないか心配だ」 


響也の眼差しは慈愛に溢れている。胸がギュッと締め付けられて、すぐに返事ができなかった。


両親が他界して以降、帆花は打ちのめされ、部屋に引きこもって泣いていた。しかし響也は違った。途方もない困難が降りかかっても思考を止めなかった。帆花を守り、この家で暮らすことを親族に認めてもらえるよう説得し、筋を通してくれた。


休む間もなく様々な対応に追われていた響也はひどく疲れているはずだ。一家の大黒柱となる責任を負い、重圧を感じているはずなのに――


(助けが必要な時、迷わず手を差し伸べてくれる。私の存在を肯定してくれる響ちゃんが側にいることがどれほど救いで、心強いか伝えたい)


帆花は頤に掛けられた響也の手を掴んで胸元に引き寄せ、宝物のように両手で包み込んだ。


「心配してくれてありがとう。家が大変な時に、響ちゃんに頼りっきりでごめんなさい。これからどうなるんだろうってすごく不安だったんだ。だけどもう大丈夫。響ちゃんがいてくれたら、何も怖くないよ」


虚勢も強がりもない。響也がいると、自然と心が奮い立つ。帆花はまっすぐ響也を見据え、背筋を伸ばした。


「あのね。響ちゃんが私のこと重荷じゃなく支えだって言ってくれた時、本当に嬉しかったんだ。色々あって心が弱ってたから余計に。だからほんの少しでも大切な人の役に立ててるんだって思うと誇らしかった。もう一度、前を向く勇気をもらえたの」

「帆花……」

「感謝してる。変わらず側にいて、私のことを必要としてくれて。今日のこと、ずっと忘れないよ。挫けそうになったら響ちゃんのことを思い出す。そして響ちゃんの言葉に恥じない私でいられるよう精一杯頑張る。それから……"ごめん"の代わりに"ありがとう"をたくさん言うね」


この先試されるのは響也だけじゃない。帆花もまた自身に問い続けるだろう。"響也の側にいることを選んでよかったのか"、"響也にはもっと別の選択肢があったんじゃないか"――響也が歯がゆい想いを抱え、苦労に直面する度に。


(その時、私は重荷になっていると悲しむんじゃなく、響ちゃんの力になりたい。だから響ちゃんの側にいることを謝らない。涙の代わりに笑顔を届けよう)


春風のような帆花の笑顔に意表を突かれ、響也は瞳を見開いた。


「敵わないな、お前には」

「え?」

「すごいなって話だよ。やっぱりお前は俺の自慢の妹で、神楽木家のお姫様だ」

「お、大げさだよ」

「大げさじゃねぇよ。お前がそういう奴だから俺は守りたいんだ。他の誰のためにも同じことはできない」


はっきり告げた響也の言葉が意外で、帆花は目を丸くした。響也は「何間抜け面してんだよ」と苦笑し、帆花の額を軽く指先で小突く。


「覚えてるか? 俺達が出会った日のこと。お前はまだ小学生で、母さんに手を引かれて現れた」

「うん」

「家族になるとはいえ、血のつながりのない他人――しかも男と同居するんだ。不安じゃない訳ないだろ? だけどお前は俺と父さんを快く受け入れてくれた。……驚いた。母さんの幸せを願って勇気を出したお前のことを、芯が強くて優しい子だと思った」

「そんな、買い被りだよ。私はただ、お父さんとお兄ちゃんができるのが嬉しくて――」

「それでもだ。なかなかできることじゃない。お前のそういうところに救われてる人間は少なくないはずだ。自信持てよ。なんたって俺が認めたんだからな」


堂々と言い切る強気な態度が響也らしい。自信に満ちた笑みに励まされ、帆花は照れ臭そうに頷いた。


「分かった。響ちゃんがそう言ってくれるなら」


素直に賞賛を受け取った帆花の頬に、はらりと髪がかかる。生まれつき色素の薄い栗色の髪は柔らかく、指通りが滑らかだ。落ちてきた長い髪を、響也が何気ない仕草で耳の後ろに流した。大切にされている――過保護なほど。


帆花の白い頬に微かな赤みが差し、顔色が良くなったと解釈した響也は安堵の息を零した。


「俺はお前の笑顔が好きなんだ。お前がこの家で笑っててくれたら、どんなことでも乗り越えられる。だから……無理にとは言わない。気が向いた時でいい。また笑顔を見せてくれるか?」

「うん、約束する」


指切りを交わし、微笑み合った。響也の笑顔に胸が高鳴る。切れ長の瞳が慈しみを込めて細められ、響也のことが愛おしくてたまらなかった。世界中で響也の側だけは、安全地帯に思えた。


響也の覚悟に報いるなら、自分を否定したり、卑下するような真似はできない。だから強くなろう。響也がいつでも家で――自分の隣で安らげるように。


「二人で頑張ろうね。雨の日も、風の日も、この家に明かりを灯そう」


帆花は祈るように呟いた。


この日を境に神楽木家は光を取り戻し、そして7年の歳月が経った―――

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