譲れないもの5/Side神楽木響也


決然とした声が脳髄に刺さる。ひたむきな眼差しに、焦がれてやまない表情に目を奪われる。


 『響ちゃんが好きなの。妹としてじゃなく、1人の女性として愛してる』


 告げられた言葉の意味を理解した瞬間、ドッと鼓動が乱れた。戸惑いと疑問が波のように押し寄せ、頭の中が混沌とする。


 (帆花が俺のことを、男として想ってる……?)


 衝撃の事実に思考が絡まる。異動が決まった件を伝えた時も、見合い話が持ち上がった時も。帆花はこちらが拍子抜けするほど落ち着いていて、笑顔で背中を押してくれた。猛スピードで過去の記憶を辿ったが、異性として意識されているような素振りは覚えがない。


 「ちょっと待ってくれ」


 気が動転し、片方の手を挙げタイムを取る。


 「正直、混乱してる。お前が好きな男の話を切り出した時、俺はてっきり昴のことを言ってるんだと思った。さっきはその……口に出すのが憚られて濁したが、お前ら浜辺で抱き合ってたろ? だから2人は両思いで、お前は過保護な保護者の理解を得ようとしたんだと――」

 「それは誤解だよ!」


 強い口調で遮られ、驚いた。人が話をしている最中に口を挟むなんて、帆花の性格から考えられない。つい熱くなった帆花は我に返って恥じ入り、「ごめんなさい」と肩を縮めた。


 「まさか響ちゃんに見られてたとは思わなくて焦ったの。あの時は……昴さんの胸を借りて泣いただけで、抱き合ってたわけじゃないよ。昴さんのことは心から信頼できる大切な人だと思ってるけど、恋愛感情はない。昴さんはずいぶん前から私の気持ちに気付いてたみたいで、応援してくれたんだ」

 「あいつがお前の気持ちに気付いてた?」


 愕然として息を呑む。帆花は共感を込めて頷いた。


 「私もすごく驚いたけど、誰にも言わずにしまってきた想いを掬い上げてもらえて嬉しかった。すごく勇気をもらえたの。こうして響ちゃんと向き合えたのは、昴さんのおかげ」

 「じゃあさっき言ってた相手は……本当に俺のことか」

 「うん」

 「そうか。全部俺の勘違いで、昴とは何もないんだな」


 懸念が杞憂に終わり、脱力した。無意識に安堵の息を漏らすと、くすっと笑い声がした。


 「ほっとした? 親友と妹が恋仲になったら、兄としては複雑だもんね」


 意外な指摘に言葉を失う。瞬きも忘れて硬直すると、帆花は不思議そうに首を傾げた。


 「あれ、違った? 昴さんから髪飾りをもらって以来、昴さんが絡むと何かと機嫌が悪くなってたからてっきりそうだと。2人でクリスマスパーティーに参加した時なんて明らかに怒ってたし、ダブルデート中も昴さんのこと牽制してたよね」

 「――それは……」


 違うと本能が訴え、深い眠りから覚めるような心地がした。昴が帆花に近付く度に苛立っていたのは、親しい友人と妹が恋仲になるのが複雑だからじゃない。保護者として監督する義務があったからでもない。もっと単純で、利己的な理由から2人を遠ざけていた。 


 (俺が嫌だったんだ)


 いつのまにか育っていた強烈な独占欲。


 胸の奥で燻っていた昏い感情の正体に思い当たり、呆然とした。点と点が繋がって線と化し、全てがすとんと腑に落ちる。



 はじめは些細なきっかけだった。


 帆花が身に着けていた髪飾り。その贈り主が昴だと知った時、小さな引っ掛かりを覚えた。


 昴は人当たりがよく、老弱男女問わず円満な人間関係を築ける器用な男だ。ただし内面は繊細で非常に用心深く、プライベートに深入りされるのを避ける節がある。特に身近なコミュニティの人間に対し慎重で、探りを入れられると得意の社交術でさらりと躱し続けていた。


 親しい友人の妹――家族同然に接してきた帆花に異性として関心を抱き、装飾品を贈るなど考えられなかった。あの頃から昴の帆花を見る眼差しが、態度が着実に変わっていった。けれど決定的な変化を感じ取ったのは、昨年末に催された会社のクリスマスパーティーだ。


 大勢の知人が集まる場所に帆花を同伴し、恭しくエスコートする昴は別人のようだった。何事にも執着せず平静を貫いてきた男が初めて見せた本気に形容しがたい焦燥感を覚えた。慣れない場所で見知らぬ人に囲まれながら、堂々と談笑する帆花にも面食らった。2人がお互いに影響を与え、変化を生じさせるほど親密な関係に発展したことに取り乱し、強い苛立ちに襲われた。とても冷静でいられなかった。


 今日のダブルデートもそうだ。からかわれて怒ったり、拗ねたり、笑ったり。くるくる表情を変えながら、楽しそうに昴と笑い合う帆花から目を離せなかった。昴に抱き締められ、それを受け入れる姿を目撃した時は頭の中が真っ白になり、凄まじい喪失感に打ちのめされた。


 『いい機会だから忠告しておくよ。響也は帆花ちゃんを大切にしてるし、一番の理解者だと思うけど、肝心な部分を見落としてる。君自身の中に眠る気持ちさえも。家族だからって安心しきって何でも理解したつもりでいると、いずれ取り返しがつかないことになるから気を付けて』

 『何の話だ』

 『響也は帆花ちゃんに守られてるって話だよ』


  昴の忠告――その真意を、ようやく理解した。


 (誰にも帆花を渡したくない。この手で帆花の笑顔を守り、幸せにしたい)


 想いの輪郭が明確になり、心の一番深い部分まで浸潤していく。


 帆花は春の陽だまりのように温かく、眩しい存在だ。隣にいるだけで幸せに満たされて、自然と笑みが浮かぶ。理屈じゃないのだ。細胞の隅々まで行き渡るようなどうしようもない愛しさを、他に知らない。


 「……響ちゃん? どうしたの。体調悪い?」


 気遣わしげな声がして、黙想の湖から引き上げられた。不安に苛まれているはずなのに、体調を案じてこちらを見つめる栗色の瞳が愛しい。 


 「大丈夫だ。驚かせて悪かった。お前の話を聞いてから、すごく大事なことを考えてた」


 自分でも驚くほど柔らかい声が出た。少しでも帆花を安心させたかった。


 帆花が2人の生活を守るために想いを秘めてきたことを慮ると、我が身のように胸が痛む。並の決意や精神力では到底貫けるものではない。長年行き場のない想いを抱えながら、それでもなお笑って側にいてくれたのだ。少しも見返りを求めず、包み込むような深い愛情を惜しまず与えて。


 「――色々言いたいことはあるが、最初に謝っておく。お前の気持ちを知らなかったとはいえ、見合い話に巻き込むなんて無神経なことをした。昴とのことも誤解して嫌な思いさせたな。本当にごめん」


 両膝に手をつき深く頭を下げると、帆花は慌てて制止した。


 「そんな、自分を責めないで。響ちゃんは何も悪くないよ」

 「お前に辛い思いをさせたのは事実だろ。十分罪深い」

 「それなら私は比べものにならないくらい罪深いよ。妹なのに……ずっと好きでいたんだよ。伯父さんや親戚の人達に知られたら、響ちゃんがどんな目で見られたか。他人に言えないような後ろめたい気持ちを隠してきたこと、失望されても仕方ないと思ってる」

 「バカなこと言うなよ。人を好きになるだけで罪になるわけないだろ。俺がお前に失望するのもありえない。大事なのは周りがどう思うかじゃなく、お前自身の気持ちだ。お前は後悔してるのか? 俺を好きになったことや、気持ちを伝えたことを」

 「……っ、してない」


 左右に首を振る帆花の頭に手を伸ばし、励ますようにポンポン撫でた。


 「なら背筋伸ばして堂々としてりゃいい。万一お前を責める不届きなやつが現れたら、1人残らず俺がぶっとばしてやる。――簡単に飲み込むなよ、自分の気持ちを。お前がお前自身に誠実である限り、何も後ろめたく感じる必要ない」


 厳しい顔をふっと緩めると、栗色の双眸が眩しげに揺れる。


 「……ありがとう。響ちゃんが味方でいてくれるなら、世界中を敵に回しても怖くないよ」


 帆花は胸の前で両手を重ねた。


 「あの日響ちゃんが私の手を取ってくれた瞬間、私の中で凍ってた時計の針が動き出したの。とてつもない苦難が降りかかっても諦めずに立ち上がる強さを、助けが必要な人に手を差し伸べる優しさを育ててくれた。勇気を持って道を切り開いていく響ちゃんは、私にとって最高のヒーローだよ。……私は平凡で特別な力を持たないけど、響ちゃんが疲れた時に寄り掛かったり、落ち込んだ時に元気を取り戻せる存在になりたい。響ちゃんがいつでも充電できるように、めいっぱいパワーを溜めておく。だからいつでも頼ってね」 


 向けられた笑顔は屈託がなく、澄んだ春空のようで。穏やかな声が、慈しみのこもった言葉のひとつひとつが織り重なって、温かな光の雨に打たれるような心地よさが胸に広がっていく。


 (ああ、どうして結婚に踏み切れなかったのか分かった。とっくに生まれてたんだ)


 いつも胸の真ん中にあって、心を突き動かしてやまない唯一の存在が。


 「帆花」


 真剣な面持ちで呼び掛けると、帆花はピクリと肩を震わせた。必死に勇気を掻き集めて向き合っている帆花を、抱き締めたくてたまらなかった。しかし藤崎との縁談を保留にしている今、帆花に想いを伝えることはできない。


 「これは俺の勝手な都合だが、お前に返事をする前に整理しなきゃならないことがある。そんなに時間はかけないから、待っていてほしい。……待っててくれるか?」


 予想外の反応だったのか、帆花は瞳を円くした。告白は断られるのが前提で、検討してもらえるとは思ってもみなかったという顔だ。しばらく戸惑っていたが、やがて納得したように頷く。 


 「分かった。待ってるね。私はどんな答えでも受け止めるから、自分の気持ちに嘘を吐かないでね」

 「もちろん。約束だ」


 指切りを求めると、帆花の華奢な小指が控えめに触れてきた。言葉にできない想いを誓うように指を絡めると、白い頰が微かに朱に染まる。積年の想いを映し出すような眼差しを注がれ、


 「このまま触れていたいけど、離れがたくなるから……」


 恥ずかしそうに囁く声が心臓を鷲掴みにする。微かに伏せられた長い睫毛。細い首筋にかかる、色素の薄い髪。身を寄せた時、仄かに香る、甘い香り。


 危うく理性が崩れそうになり、鋼の自制心で手を離した。


 「今日は疲れたろ。家事はもういいから、お茶を飲んだら早めに休めよ」

 「うん、ありがとう。そうさせてもらうね」


 日常の会話が空気を和らげ、穏やかなひとときが戻ってきた。時間をかけてゆっくりお茶に口をつける帆花から、少しでも長く一緒にいたいという想いを感じる。こっそりこちらの様子を窺って、目が合うとはにかみ、視線を逸らす。そんな帆花が一層愛しく、守りたいと思う。


 帆花がかけがえのない存在であることに疑いはないが、想いを返すことが帆花にとって最善の選択だという確信は持てない。それでも自分を選んでよかったと――10年後、20年後もその先も――変わらず幸せな笑顔を見せてほしい。


 (そのためならどんな試練も乗り越えてみせる)


 新たな覚悟を決めた夜、窓の外の半月は眩いほど輝いていた。


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