譲れないもの3
訊かれて顔を上げる。憂いを悟られないよう、明るく笑って首を横に振った。
「私はしばらくここにいます。いい雰囲気ですし、2人でないとできない話もあるでしょうから」
「元々4人で来たんだから遠慮しなくてもいいのに」
「ふふ、そうですね。私が勝手に気を遣ってるだけなので、気にしないで下さい。もし昴さんが合流されたければ……」
「僕も別行動でかまわないよ。帆花ちゃんを独り占めできるしね」
艶っぽい笑みを浮かべた昴と視線が交わる。しなやかな手が伸びてきて前髪に触れ、乱れていた部分を整えていく。くすぐったくて、妙な緊張感でどぎまぎした。礼を告げ、恥ずかしそうに瞼を伏せる帆花に柔らかい眼差しが注がれる。
「響也達が戻ってくるまで時間かかりそうだね。よかったらまた昔話を聞いてくれる?」
「はい、ぜひ聞かせて下さい」
快諾すると、昴は安堵の表情でコートのポケットに両手を入れた。
「響也と出会った時の話をしようか。大学に入学して間もない頃、たまたま同じ講義を受けていて、教授の指示でグループワークをする機会があってね。一緒に作業したんだ。以来、顔を見かければ声を掛けたり、他愛ない話をするようになった」
「そうだったんですね。それから仲良くなったんですか?」
「いや、しばらくは顔見知り程度でつかず離れずの関係だったよ。僕はかなり用心深い性格だったから、社交的に振る舞っても他人とは徹底して距離を置いていたんだ。誰にも心の裡を明かさなかったし、そういう相手が必要だとも考えなかった。だから響也もはじめはただの、大勢の知人の1人でしかなかった」
驚いて瞳を丸くする。昴は「意外かな?」と肩を竦めた。
「僕と響也の共通点なんてマイペースなところくらいで、あとはまるっきり正反対だったよ。僕は呼吸するように空気を読んで他人の顔色を窺っていたけど、響也は愛想が良い方じゃないし、他人の機嫌を取ったりしなかった。でもなんだかんだ面倒見がよくてさ。周りに人が集まってくる。まるで響也のいる場所に光が通るみたいに――。あれは天然の人たらしだね」
「ふふ、同意します。本人に自覚がないのが厄介ですね」
「ほんとに。意図せず他人を魅了する才能なんて性質が悪いよ」
顔を見合わせてくすっと笑い、ほのぼのした雰囲気が漂う。小学校低学年と思われる男の子が2人、背後から追い抜いてきて波打ち際へ駆けていった。楽しげな笑い声が響いて、母親と思われる女性の窘める声が遅れて飛んでくる。家族の憩いの光景を微笑ましく見守りながら、帆花の胸に好奇心が芽生えていった。
「今みたいに親しくなるのには何か特別な出来事があったんですか?」
「劇的なことはなかったけど、見方が変わるきっかけはあったかな」
「聞かせて頂けますか?」
「もちろん。1年目の夏季試験を数週間後に控えたある日の午後、図書館に行ったら響也が勉強しててさ。夕方、帰りに立ち寄ったらまだいたんだよ。それで『真面目で手を抜かない性質だと苦労が多いだろうな』って冗談まじりに気の毒がったら、『お前は色々手を抜き過ぎだ!』って怒られたんだ。特に関心を持てるものがなくて、何事も適当にやり過ごす僕の悪癖を見抜かれて驚いたよ。しかもいい加減なところが癇に障ったんじゃなく、僕が自分を蔑ろにしているように見えて腹を立てたらしい。――お節介だよね。お人好しで正しくて、耳が痛かった。両親でさえ気付かなかった欠点に気付いて、心配してくれるなんて夢にも思わなかった」
遠くに想いを馳せるような声が乾いた空気に溶けていく。遮るもののない浜辺に風が吹き抜けて、地平線の彼方へ視線を移した昴のダークブラウンの髪を揺らした。
眩かった夕焼けの光は勢いが弱まり、薄く淡く、微睡むように世界を包み込んでいく。日が翳ってきた砂浜は肌寒さを増し、夜の衣に着替えた海は青に深みを帯びていた。
「響ちゃんはちゃんと向き合ってくれるから、誤魔化せないんですよね」
ぽつりと沈黙が破られ、昴は首肯する。
「ぶっきらぼうだけど他人に無関心なんじゃなく、誠実なんだよね。言いにくいことでも必要と判断すれば遠慮なく指摘する。でも、たとえば心の傷に繋がるような、触れられたくない部分は機敏に察して、詮索せずにいてくれる。側にいるのが心地良くて、気付いたら一緒にいる機会が増えたよ。そして響也と親しくなれたおかげで帆花ちゃんと――おじさん、おばさんと縁を持てた。神楽木家の人達はみんな温かいから、同じ空間にいるだけで癒やされたよ」
慈しむように告げ、表情を曇らせる。
「ごめん。ご両親の話に触れるのは気が咎めるけど……」
「大丈夫ですよ。両親の思い出を共有できる相手は限られていますから、こうして懐かしむことができて嬉しいです。それに、昴さんにとって大切なことなら遠慮なくお話して頂きたいです」
何の気負いもなく、ただ真摯な眼差しを返した。昴は眩しいものを仰いだように瞳を細める。
「そういうところなんだよね」
「え?」
「大抵の人間はさ、辛いことや苦しいことがあると自分の殻に閉じこもったり、周りの人にあたって傷付けてしまうでしょ。だけど帆花ちゃんは――響也は、厳しい状況に置かれても挫けず、助けが必要な人に手を差し伸べる強さと優しさを備えてる。保身のために相手の顔色を伺うんじゃなく、純粋に、心ひとつでまっすぐに向き合ってくれる。ああ、この人は上辺でなくちゃんと自分を見てくれてると信じられることがどれだけ安らぎを与えてくれるか――想像できないかもしれないけど、僕にはとても尊いことなんだよ。だから僕は君達のことが大好きなんだ」
愛しさが溢れる眼差しを注がれ、大切に思う気持ちが伝わってくる。小さな感動が胸の奥で弾け、幸福な温もりが広がった。昴は帆花に向き直り、いつになく真剣な面持ちで告げる。
「帆花ちゃんと響也が一緒にいるときの、光が灯ったような、温かくて柔らかい空気が好きだ。二人の輪に加わったときに感じる幸福感は何にも代えがたいものなんだ。だから僕の勝手な願望だけど、二人にはずっと一緒にいて欲しいと願ってる」
昴の意図が読めずに戸惑う。返答に窮していると視線の高さが合わせられ、剥き出しで冷えた両頬が包み込まれた。直に触れる大きな手のひらから、じわりと体温が染み込んでくる。
「守りたい、笑顔にしたい、幸せにしたいと願う。同時に独占したい、誰にも渡したくない、側にいて欲しいと望む。矛盾してるけど、表裏一体で切り離せないものだよね」
「……っ!」
「帆花ちゃんが響也に自分のために生きて欲しいと言ったのは本当の気持ちだと思うけど、それとは別に伝えたい想いがあるんじゃない? それは黙って成り行きを見守っていたら、もし響也が藤崎さんと結婚したら、伝えることができなくなるんじゃないかな? 響也の隣にいる人が自分じゃなくなっても、帆花ちゃんは……心から笑える?」
澄んだ飴色の双眸に射貫かれ、息を呑む。小波の音が掻き消され、心臓の鼓動がやけに大きく響いた。複雑に入り組んだ鍾乳洞に投げ込んだ小石が、底に落ちるような奇妙な感覚に襲われる。次の瞬間、心の奥で厳重に蓋をしていた想いが溢れて泣きそうになった。
覚悟を決めた時の凜とした眼差し。絶対に離さないというように握られた掌の力強さ。帆花と名前を呼ぶ、温もりが灯った声。振り向き様に見せる慈しみのこもった瞳。バカだな、と頭を撫でる、雑なようで優しい手。完全に気を許した無防備な寝顔。とても疲れて、甘えるように寄り掛かってきた肩に感じる加減された重み。あげればきりがないほど響也の全てが愛しくて―――
堪える余裕もなく涙が膨らみ、零れて、はらはら頰を伝っていく。あと数週間で響也はNYへ発つ。響也のいない家で暮らすのが当たり前になって、響也も、帆花がいない毎日に慣れていくのだろう。そして藤崎のように、自分で選んだパートナーと新たな人生を築いていく。響也の日常の光景に帆花の姿はなくなる。響也は自分の知らないところで大事なものを増やして、笑って、時に傷付いて、年を重ねていくのだ。想像しただけで心が散り散りになる。
藤崎は綺麗で、優しくて、大人の余裕がある素敵な人だ。きっと周りの人達が羨むような理想のパートナーになれる。けれど―――
(心からは笑えない)
必死に堰き止めていたものが溢れ出せば止まらなかった。口許を手で覆って俯くと、痛みを遮るように抱き締められた。
「ごめんね。君達兄妹と過ごす時間が心地良くて、もう少し、あと少しだけと背中を押すのを先延ばしにしてたんだ。ずっと一人で抱え込んで……辛かったね」
大人が子供をあやすように、震える背中を慰撫される。それが一層涙を誘った。ただ懸命に首を横に振り、昴は何も悪くないと意思表示する。声にならない嗚咽を漏らしながら、無意識に力んでいた。強張った肩に昴の手が乗り、安心させるように優しく叩く。
「気持ちを伝えるのは怖いかもしれないけど、大丈夫。僕はしたたかだから、勝算のない戦いをけしかけるほど無謀じゃない。それに響也なら、絶対に背中を向けたりしないよ。響也がどんな人間で、どんな姿勢で人と向き合うのか。それは帆花ちゃんが一番理解してるんじゃない?」
しとしと降る春雨のように穏やかな声が鼓膜に吸い込まれていく。ひどく軋んで、悲鳴をあげていた心にポッと明かりが灯り、徐々に不安が解けていった。
どのくらい胸を借りていただろう。服の布地越しでも程よく鍛えられた胸板が感じられて、抱かれているのが急に恥ずかしくなった。慌てて押し返し、一歩後退する。ハンドバックの中を探り、ハンカチを取り出し涙を拭った。深めの呼吸を繰り返し、鼓動を整える。
「取り乱してしまってごめんなさい。大切なことに気付かせて下さってありがとうございます」
「どういたしまして。君達が僕に与えてくれるものを同じ形で返すことはできないけど、少しでも役に立てたなら嬉しいよ」
「そんな。昴さんはいつもたくさんの贈り物を下さってますよ。目に見えなくても確かに存在していて、もう心の一部になっています。そのひとつひとつが世界にひとつだけの、かけがえのない宝物です」
慈愛のこもった笑顔を向けられ、昴が微かに瞳を見開く。数秒後、降参するような、少し弱った笑みを浮かべて首の後ろに手を当てる。
「まいったなぁ。忘れてたよ。帆花ちゃんも自覚がない天然の人たらしだった」
きょとんとする帆花に笑みを漏らし、サク、と砂を踏んで距離を詰める。たくさん涙を零した下瞼に親指を滑らせ、少し屈み、まだ熱を宿す上瞼と眉の間に唇を寄せた。
「――勇気が出るおまじないだよ」
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