変化の兆し/Side神楽木響也
年が明け、年末年始休暇を終えると仕事に忙殺される日々が戻ってきた。見合い相手の藤崎は次の約束は急がないと気遣ってくれたが、長く待たせるのは申し訳ない。早めに予定を調整し、一月中旬の週末に再会することになった。
当日午前11時半頃、待ち合わせ場所の東銀座に到着した。指定されたレストランは大通りから一本外れた細い通りに面していて、開店前にも関わらず長蛇の列ができている。その中に藤崎の姿があった。
淡いブルーの膝丈のコートを羽織り、白いマフラーを巻いた藤崎は清楚な雰囲気が漂う落ち着いた美人だ。ストレートの黒髪はちょうど胸が隠れる長さで、陽光の下、輝くような艶を放っている。
「藤崎さん」
声をかけると、藤崎がパッと笑顔になる。
「神楽木さん! こんにちは。お店、迷わずに来れましたか?」
「はい。寒い中お待たせしてすみません。早めに家を出たんですが、一足遅かったようですね」
「たまたま私が先に着いただけですから気にしないで下さい。人が増えてきたので邪魔にならないよう列に加わりましたが、予約してますし並ぶ必要ないんですよ」
屈託のない笑みを向けられ、藤崎の厚意に感謝した。こういう場合は男性側がプランを立てるのが好ましいだろうが、事前にリクエストを聞いた時、気になるお店があると言った藤崎が自ら予約してくれたのだ。
「店探しから予約まで、何もかもお任せで恐縮です」
「いえいえ。一度来てみたいと思ってたお店なのでちょうど良かったです。お仕事は大丈夫でしたか? お忙しい中時間を作って下さってありがとうございました」
「こちらこそ。俺の都合に合わせて頂いて感謝してます」
「とんでもない。またお会いできて嬉しいです」
二人の間に穏やかな空気が流れる。年末年始はどう過ごしたかなど他愛ない会話を始めたところで店が開き、間もなく店員に呼ばれた。
南イタリア、ナポリ近郊の小さな街をイメージしたという店は天井が高く、黄色を基調にした内装で明るい雰囲気だ。厨房に近いテーブル席に通され着席すると、藤崎がメニューを広げてくれた。
「ここはアラカルトの種類が豊富でどれも食欲をそそりますが、もしよかったら週末限定のランチコースにしませんか? 前菜がついてきて、パスタかピザを選べます。食後にはカフェとデザートが」
「いいですね。それにしましょう」
さっそく料理を注文すると、5分ほどで前菜が運ばれてきた。有機野菜とフルーツトマト、柑橘類のサラダにイタリア各地の生ハムが添えられていて、見た目にも鮮やかな彩りだ。
お互いの近況を報告する間、藤崎は話し方や所作から育ちの良さを感じさせた。とはいえ気取った様子はなく、一緒にいる相手が心地良く過ごせるよう配慮ができる人だ。自分が話す時も相手の話を聞く時も、まっすぐ向けられる眼差しに誠実な人柄が滲み出ていて好感を抱いた。
前菜を食べ終える頃、見計らっていたかのように熱々のピザがサーブされた。色んな味を楽しもうと、それぞれ注文したマルゲリータとビスマルクをシェアした。比較的薄い生地のピザは表面がサクッとしていて、中は弾力がある。特にトマトソースが絶品だった。程よい酸味の中にすっきりした甘さがあり、重くなりがちなピザでさえ何枚でも平らげてしまえそうだ。
(帆花が喜びそうだな)
瞳を輝かせながら「美味しい!」と頬張る姿が鮮明に思い浮かび、笑みが零れる。それまで涼しい顔を崩さなかった響也が、慈愛に満ちた優しい表情に変わったので藤崎はドキッとした。
「今、何を考えてらっしゃるか聞いてもいいですか?」
好奇心の混ざった声で訊かれ、響也は意識を引き戻された。
「妹はとても美味しそうに食べるんですよ。それを思い出していました」
「まぁ。そういえば神楽木さんには妹さんがいらっしゃるんでしたね。確かお名前は……」
「帆花です。この春大学を卒業して社会人になります」
「そうでしたね。どんな子か聞いてもいいですか?」
「思いやりのある優しい子です。周りを気遣って自分の意見を飲み込む遠慮がちな面がありますが、一度心に決めたことは貫き通す芯の強さもあります」
「自慢の妹さんですね。もし写真をお持ちでしたらぜひ拝見したいです」
「かまいませんよ」
一旦ナイフとフォークを置いてスマホを取り出す。藤崎はおしぼりで手を拭き、慎重に受け取った。そして画面を見た途端、「可愛い!」と瞳を丸くした。
「色白で目がパッチリしてて、お人形さんみたい。浴衣姿で旅館……ご旅行ですか?」
「帆花の誕生日に箱根に行った時の写真です」
「二人とも素敵な笑顔。仲の良いご兄妹ですね」
「そうですね。友人には過保護過ぎると呆れられています」
くすっと笑い、藤崎はスマホを返した。
「帆花ちゃんのこと大切にされてるんですね。神楽木さんみたいに優しくて、頼りになるお兄ちゃんがいたらすごく自慢しちゃう」
「光栄です。藤崎さんはひとり娘ですよね。ご両親の愛情を一身に受けて成長されたのを感じます」
「ええ。両親はとても可愛がって育ててくれたので感謝しています。おかげで寂しくありませんでしたが、子供の頃は兄弟に憧れたものです」
終始和やかな雰囲気で食事が進み、お互いの仕事やプライベートについて語り合った。最後にデザートとコーヒーが出てきて、全てを胃に収める頃には十分な満足感に包まれていた。
食後は周辺を散策することになり、正月ムードの余韻が残る街中を歩いた。藤崎が時々ショーウィンドウの前で足を止め、ガラス越しに店内を眺めたり、中に入って商品を手に取ったりするのを見守る。
途中、偶然立ち寄った雑貨店で少しの間藤崎と別行動になり、何気なく店内を見回した。ふとアンティーク調の髪飾りが目に留まり、視線が釘付けになる。帆花が愛用している物とよく似ていたのだ。
『昴さんに貰ったの』
はにかんだ帆花が脳裏に蘇る。胸がチリッと火傷したように疼いた。
クリスマスパーティーの日、内に秘めていた魅力を惜しげなく開花させた帆花が、香り立つような美しさを湛えて昴と寄り添う姿を見た瞬間、衝撃が体を貫いた。
男が女を着飾らせる目的はたいていの場合、下心があるからだ。何の警戒心も抱かず昴の手で着飾られ、その身を預ける帆花にいいようのない苛立ちを覚えた。親密な距離で、当然のようにエスコートする昴にも腹が立った。大切に守ってきた宝物を奪われ、無遠慮に触れられたような不快感がこみ上げた。波立つ感情を封じ込めたのは、余計な一言で水を差し、幸せそうな帆花の笑顔を曇らせたくなかったからだ。
帆花は必ず守ると誓った。その想いに一切揺らぎはない。しかし帆花は成長し、この手を離れていく。遠くない未来に生涯のパートナーを選び、結婚するだろう。その時、保護者の役目を引き継ぐ立場であることは理解している。それなのに。これまで感じたことのない激しい感情が芽生えて、未消化のまま胸に塞がっている。
(昴に……いや、誰にも渡したくないと思うなんてどうかしてるな)
眉間に皺が寄り、ため息が零れた。
「――……さん。神楽木さん? 大丈夫ですか?」
横から声がして我に返る。藤崎が気遣わしげにこちらを見上げていた。彼女の存在を完全に忘れていた失態に気付き、己を戒める。
「すみません、少し考え事をしていました」
「そうですか。よかった、体調が悪いわけじゃないならいいんです」
優しい笑みを浮かべ、藤崎は腰の後ろで両手を組む。響也は口角を上げた。
「目当ての品は見つかりましたか?」
「残念ながらここにはありませんでした。でも私、こういう雑貨のお店は何時間見ていても飽きないくらい大好きなんですよ」
「なるほど、確かに色々な物が置いていて見応えがありますね。藤崎さんのお好きな物、もしくはお勧めがあれば紹介してもらえませんか?」
響也が興味を示すと、藤崎は嬉しそうに顔色を明るくした。
「好きなものは沢山ありますが、最近は天然石が気になっていて勉強中です。このお店にもあったので、よかったら神楽木さんもご覧になってみて下さい」
藤崎が指さす先に視線を移すと、天然石コーナーが設けられていた。棚の前に移動すると、色とりどりの石はそれぞれ意味や効果があるのだと藤崎が解説してくれる。アクセサリー等に加工されたものや、手のひらに収まる小ぶりの石が種類別に陳列されていた。
物珍しげに眺めていると、藤崎が耳に髪をかけながら距離を詰めてきた。
「ご存じかもしれませんが、誕生石というものがあるんですよ。神楽木さんは何月生まれですか?」
「5月です」
「5月ならエメラルドですね。エメラルドは叡智を象徴する石として知られていて、知的な職業の人々に愛されてきたそうです。それから愛の力が非常に強く、恋愛成就、幸せな結婚のお守りとして有効だとも言われています」
「さすがお詳しいですね」
「まだまだ初心者ですよ。でも一度気になり始めるととことん調べたくなる質なんです。ちなみに帆花ちゃんのお誕生日はいつですか?」
「11月です」
「それならシトリンです。えーと……ありました。これです」
示されたのは、金星を彷彿とさせる神秘的な石だった。
「シトリンは商売繁盛と富をもたらす幸運の石として大切にされてきたそうです。太陽のエネルギーを持ち、癒やしにも優れています。心身のバランスを安定させてくれるので、仕事や勉強でイライラしたり、プレッシャーに負けそうな時に身につけるのがお勧めです」
「お守りのようなものですね」
「はい。気の持ちようかもしれませんが、あると心強いと思いますよ。手頃な値段ですし、よかったらおひとつお土産にどうですか? シトリンに限らず帆花ちゃんの好きそうなものがあれば」
温かい心遣いに、響也はふっと目元を和らげる。
「ありがとうございます。せっかくなので少し見て回ってもいいですか?」
「もちろんです。他にも気になる石があれば遠慮なく声をかけて下さいね。私もよさそうなものを見つけたらお持ちします。一緒に、一番良いと思えるものを見つけましょう」
言って、藤崎は宝探しを始める少女のように笑った。
20分後、買い物をして店を出ると夕方に差しかかっていた。休憩がてらカフェに入るか訊くと、それなら日比谷公園に行きませんかと誘われ、承諾した。
休日の日比谷公園は家族連れやカップルの姿が目立ち、和やかな時間が流れている。自販機で温かいお茶を買って大噴水広場に並ぶベンチに腰かけた。太陽は沈むのを惜しむかのように赤く染まり、公園の木々の長い影を浮かび上がらせている。
藤崎は両手でペットボトルを包み込み、深呼吸する。
「都会の中に自然がある環境っていいですよね。喧噪に呑まれそうになっても、ほっとする瞬間があって」
「そうですね。職場の近くにこういう場所があればいい気分転換になると思います」
「神楽木さんがお勤めの会社は六本木にオフィスがあるんですよね? 華やかなエリアで羨ましいです。私なら毎日会社帰りに寄り道して散財しちゃうかも」
冗談交じりに笑った後、真剣な面持ちで響也に向き直る。
「ご両親のこと、帆花ちゃんの保護者になられた経緯を叔母様にお聞きしました。これまでずっと帆花ちゃんを養ってきたんですよね。家族だからといってなかなかできることじゃないと思います」
「叔母がどのようにお伝えしたか分かりませんが、俺は俺自身の願いで帆花を引き取りました。保護者として彼女を守り、支え、導くのは当然の責任です」
鋼のような意思の強さを感じさせる眼差しに射抜かれ、藤崎は息を詰めた。
「……迷いがないですね。私は一度こうと決めても、上手くいかなかったり、辛い目に遭うと心が揺れて弱気になってしまう。だから神楽木さんが大変な決意をしてそれを貫く覚悟と行動力がある人なんだと知って、ぜひお会いしたいと思ったんです」
「ご期待を裏切っていないことを祈ります」
「そんな。裏切るどころか期待以上ですよ。正直気後れしています。有名企業にお勤めでそれだけご容姿に恵まれているだけでも周囲の女性は放っておきませんよね。お人柄まで素敵だなんて完璧じゃないですか」
賞賛の言葉を受け、響也は短い沈黙を経て微笑した。
「あまり美化しないで下さい。仕事にかまけて家事はほとんど妹に任せきりですし、休日打ち込むような趣味もない。家と会社の往復生活で、女性を喜ばせるような話題のデートスポットも、洒落たレストランの情報も長い間更新できていません。たいていの女性は退屈で愛想を尽かすと思いますよ。理想の恋人には程遠いでしょう」
「それは……人によるんじゃないでしょうか。少なくとも私は夢を見させてくれる人じゃなく、現実をしっかり見据えていて、時に降りかかる困難を共に乗り越えられるパートナーを求めています」
藤崎は響也を見据えた。
「神楽木さんとはまだ二度しかお会いしていませんが、あなたの意思の強さ、そして家族に対する愛情の深さに触れてとても惹かれています。もし私のことがお嫌でなければ、結婚を前提にお付き合いして頂けませんか?」
突然の告白に驚かされた。藤崎の眼差しや態度から好意を感じ取っていたものの、このタイミングで踏み込んだ関係を望まれたのは予想外だった。しかし心は凪いでいて動かない。頭の中はひどく冷静だった。
結婚相手に望むものはそう多くない。仕事柄留守がちになるので、できれば一人の時間を苦とせず自ら楽しみを見つけて過ごせる女性が好ましい。あとは極端に経済観念や価値観に隔たりがなければ上手くやっていける自信がある。ただ、ひとつだけ譲れない条件がある。
(帆花を家族の一員として受け入れ、愛してくれる人かどうか。確信に至るにはまだ彼女を知らな過ぎる)
熱のこもった眼差しを、表情を変えずに受け止めた響也は慎重に口を開いた。
「そんな風におっしゃって頂けるのは純粋に嬉しいです。藤崎さんのことは魅力的な女性だと思っています。ただ、重要な決断になりますしもう少しお互いの理解を深めてから結論を出しても遅くないのではないでしょうか」
相手に寄り添う柔らかな口調だが、要望に応えたわけではない。藤崎の双眸に落胆の色が滲んだ。
「ごめんなさい、急ぎ過ぎましたね。すぐにお返事を頂けなくてもかまいません。私の気持ちはお伝えした通りなので、前向きにご検討頂けると嬉しいです」
気持ちを切り替えるように浮かべられた笑顔は自然で、気まずさを微塵も感じさせなかった。大人の対応に安堵する。
藤崎が立ったので、同じように腰を上げた。藤崎は響也が携えている小袋に視線を落とした。
「帆花ちゃんのお土産、喜んでもらえるといいですね」
「喜ぶ顔が目に浮かびますよ。一緒に選んで頂いて感謝しています」
「私こそ。贈る相手のことを考えながら想像を膨らませて、ああでもないこうでもないって悩む時間は楽しかったです」
――――響ちゃんの喜ぶ顔を考えながら選ぶのは、すごく幸せな時間だよ。
帆花の笑顔が瞼に浮かび、藤崎に重なった。とても優しい目で、愛おしげに見つめられた藤崎は心臓が跳ねた。しかし何かに気付いたように表情を曇らせ俯く。
「神楽木さんは……」
続く言葉を待っていると、彼女は思い直したように「いえ、何でもありません」と微笑む。
「そろそろ帰りましょうか。今日は楽しかったです。ありがとうございました」
「こちらこそ。駅までお送りします」
藤崎の背に軽く手を添えて歩き出すと、薄闇に包まれた公園に、ぽつぽつと白い外灯がともり始めていた。
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