2000年2月22日
事件が起きたのは2限目の授業が終わった直後だった。突然教室の後方で教科書を叩きつける大きな音がした。
「だいたいオマエがおごるっていうからついていったんだぞ。なんで今さらカネなんか払わなければならねぇんだ!ふざけるな、このキムチ野郎!」
振り返るとエロ白熊が渡世人キムにつかみかかろうとしていた。
「シッバルセッキ!(韓国語で”クソ野郎”の意)」
キムは叫ぶとエロ白熊のTシャツに手を伸ばした。二人は互いの体にしがみついてグルグルと回りだし、机や椅子を派手になぎ倒し始めた。どちらかというとヘラヘラ見ているだけのタイ人たちに腹が立ったが、仕方なく袖をまくるとよだれを垂らして掴み合っている二人に近づいた。エロ白熊はキムにヘッドロックをかけ、キムは手足をばたつかせ教室中の色々なものをひっくりかえしている。
「やめろ!」
2回大喝を浴びせたが効果がない。仕方なしにエロ白熊の腕を引きはがしてひねり上げると後ろに突き飛ばした。次にキムの腕を引くと同時に顎の下に掌手を放った。ギャッといってキムはひっくり返った。
尚も両者は立ち上がり、今度は手当たり次第辺りの物を投げ始めた。それをかわしつつ、スッと引いた右手をエロ白熊の鳩尾にめり込ませようとした瞬間、マーガレット先生の声が響いた。
「やめなさい!警察を呼ぶわよ!」
俺は両手を広げてすばやく二人の間に入った。ところがどのタイミングで負ったのか、この時左手の甲から血が噴き出しているのに気付いた。
人差し指の付け根が割れ、止血時に一瞬中の白いものが見えた。結局このあと別の先生に病院まで車を出してもらい4針も縫うことになった。病院に駆けつけたナンシーはいきなり金切り声をあげたが、同行してくれた先生が正しく状況説明をしてくれたおかげですぐに鎮火した。
「それにしてもケンカなんか放っておきなさい!」
そんなこと言われなくてもわかっているし、責められるべきは俺ではない。ちなみに教室をプロレスのリングにしたエロ白熊と渡世人キムには一週間の停学処分が下された。
マーガレット先生は差別的な意味も込めて「ノースブリッジに近づいてはいけません」と警告し続けてきたが、やはりそれは正しかった。結局は酒なのだ。今回の件も2軒目のミニスカートが手招きする店で呆然とする高額請求をされたことがきっかけだったらしい。「おごってやるよ」と豪語していたキムが後になって同行したエロ白熊に割り前を請求したことで取っ組み合いに発展した。だが突き詰めていえば、全員酒で気が大きくなっていた結果招いたことである。
それはともかく、まさかアヤコにまで怒られるとは思わなかった。
学校が終わるとウィスロップ行きではなくパース郊外行きのバスに乗った。ところがグルグル巻きになった俺の左手の甲を見るなり、アヤコは物凄い形相になった。
「何考えてるの!ケンカなんか放っておけばいいでしょ!そんな傷を見せに来たわけ!そんなの褒めてもらえるとでも思った?」
ナンシーと全く同じセリフに返す言葉もない。
「今日はその程度で済んだからよかったけど、相手が銃を持っていたらどうするの?ここは外国なんだよ!?」
全面的にアヤコが正しい。確かに彼らがナイフを持っていたら、甲の骨を見る程度では済まなかった。
「…アヤコの言う通りだ。心配させて本当にすまなかった」
アヤコに甘えようと考えていた自分が恥ずかしくなり、口を堅く結んだまま立ち尽くした。
「ゴメン。わたしもついカッとなって言い過ぎちゃった。あなたはケンカを止めようとして間に入ったんだもんね」
アヤコはすっと近づくと、包帯を巻き付けた左手をやさしく両手で包み込んだ。
「まだ痛い?」
「大丈夫だ。心配させてゴメン」
アヤコはふぅとため息をつくと、ようやく部屋の中に入れてくれた。しかしふと途中で彼女は立ち止まると、あの日ジョニーが膝まづいた赤いソファを指さ、「わたしも話したいことがあるの」と突然下を向いた。
「…ゴメン。わたしあなたのことが好きだけど、愛せないかも」
甲の傷がジンジンと脈打った。
一体どこでボタンをかけ間違えたのか。ロッドネスト島からの帰りに感じた違和感がこれほど早く道をふさぐとは思わなかった。
「――実はジョニーから聞いたの。あなたには忘れられない人がいるって。わたしそんなことも知らずに舞い上がっていたんだね。すごく傷ついたよ…」
ジョニーだと?”忘れられない人”とはエマのことか!。
あまりにも悪意あるウソだ。エマに送ったお別れメールをわざわざ声に出して読んでいたではないか。おそらく俺とアヤコの蜜月に気付き、わざわざ話を大きくして吹き込んだに違いない。怒りで目がくらんだ。許さんぞ、ジョニー!。
俺は猛然と立ち上がるとアヤコの手を振りほどいてアパートを後にした。アヤコの呼び止める声も聞こえたが、振り返らず足を速めて夜道を進んだ。
ただ――。
いつかこうなるだろうと思っていた。自制できず、友情を裏切ったのは俺のほうだという事実に足が重くなる。これ以上進んだら危ないと気付いていたのに、性欲に負けたのだ。ふたたび酒で事故を起こしたキムとたいして変わらないではないか。
左手の甲がうるさく脈打つ。包帯を巻いた手を脇の下にはさんでかばいながら、俺はウィスロップの家へと続く黒い闇を急いだ。
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