2000年3月2日

「――最後に皆さん、今日は残念なニュースが2つあります」


 マーガレット先生は教室を見渡しながら、全員席に戻るように言った。みんなの視線がマーガレット先生に注がれた。一つ目は、渡世人キムについてだった。


「実はおととい本人から退学したいとの申し出があり、学校側もそれを受け入れることとなりました」


 動揺が広がるのと同時に、昨日から復帰が許されたエロ白熊に一斉に視線が集まった。エロ白熊は”悪いのはオレじゃないだろ!”と周りの視線を振りほどこうとした。それも含みマーガレット先生は静かに続けた。


「ただ今回の事件が理由ではなく、実は先週本国のお父様が突然お亡くなりになったそうです」


 教室が静まり返った。いつも明るいタイ人たちもさすがに呻いている。

 渡世人キムの放蕩ぶりは、おそらく韓国の両親にとって頭痛の種だったに違いない。だからこそ「しばらく海外にでも行ってきなさい」という流れだったのだろうが、オーストラリアに着いて早々バーで酩酊してパスポートごとやられ、今度は学校内で乱闘騒ぎを起こして停学処分という履歴である。そんな中舞い込んだ父親の訃報に彼は何を感じ取ったのだろうか。彼の中に何らかの決心が灯ったことを祈る。


「――それからもう一つ。すでに皆さんご承知だと思いますが、今日このクラスを卒業する仲間がいます」


 呼ばれて俺はホワイトボードの前に立たった。

 あっという間の語学研修だった。最初は宿題の消化だけでも苦労したが、短期集中の結果はきちんと日本に持ち帰れそうである。

 マーガレット先生から何かあいさつするよう促されたが、直前のキムの話が重すぎて、ごく簡単なお礼を述べるにとどめた。修了証書を受け取ると、みんなで記念撮影をした。夢あり、個性ありのよき仲間たちだった。



「――最後ぐらいビールおごらせてよ」


 帰ろうとしていた俺の肩をアキさんが軽く殴ってきた。

 学校の向かいにあるパブは、まだ午後3時過ぎだというのに、冷たい一杯を求めて集まった人で混み合っていた。壁に吊るされた温度計は31℃を示している。

 アキさんは瓶の口に差し込まれたカットライムをそのまま押し込むと、コロナビールをあおった。


「最後だから言うけどさ、アタシのカレシってドラックジャンキーなのよね」


 先日は右ひじに大袈裟な包帯を巻いて登校してきた。やはり額の傷もその男のせいだったと認めた。


「何度か施設のお世話になって今ではだいぶ落ち着いたんだけど、音楽の仕事が入るともうダメ。ハイにならないと演奏できないって。この前なんか注射器刺したまま寝てたんだよ」

「申し訳ないですが、クスリでハイにならないと演奏ができないのであれば、絶望的に才能はないです」


 言い足りないとは思ったが、言い過ぎたとは思わなかった。

 捨て鉢になってアンダーグラウンドに落ちていくヤツが多すぎる。どんなに面白くないことがあろうと、毎朝一枚ずつカレンダーをめくって人生を進めていくこと以外に道はない。それを諦めた人間の「自制できない理由」など聞き飽きた。


「やっぱそうなるよね。でもさ、そういう部分を抜けばホントは優しい人なんだよね。アタシは実家の両親と死ぬほど仲悪いから日本にも帰れないし」


 アキさんは新しい1本に火をつけると、目を閉じて深々と煙を吸い込んだ。無神経な言葉に怒っているようにも絶望しているようにも見えたが、最後には深い溜め息をついた。


「カレが背負っている問題は愛情では解決できない。何度もすがったけど、その度にこうなるの」


 彼女は包帯を巻いた肘を顎でしゃくった。だがそれは愛情の量の問題ではなく「質」の問題だ。


「アキさん自身やりたいことはないんですか?」


 彼女はビール瓶に伸ばしかけた手を止めた。


「例えばお店をやるとか何かのライセンスを取るでもいい。きちんと期限を設けて挑戦してみてはどうでしょう。カレの存在抜きで目標達成に向けてのマイルストーンを積んでいくんです。そして期限が来た時、カレが今後障害になるか判断すればいいと思います」


 自制を知るには、はっきりとしたゴールを見据えて歩きはじめるしかない。途中で吹き飛ばされそうになるかもしれない。しかしどんなに目がくらもうと、自分をゴールから遠ざけるものにしがみついてはならない。

 問題は、薬物中毒からなかなか抜け出せないカレではなく、”不幸な伴走者”であり続けることを選んでいるアキさん自身なのだ。アキさんは自分だけのゴールを持つべきだ。彼女がゴールの旗に向かって歩き出した時、取るべき選択は自然と明らかになるだろう。



 パブを出た頃にはすっかり日が暮れていた。だがアキさんの眼には灯るものがあった。


「考えたこともなかったけど、お店とか面白そうだね。なんか色々スッキリしたよ。今までいろんな人に相談してきたけれど、元気が出たのは初めてかも」


 アキさんは突然ギュッと俺にハグすると、手を振って道の反対側に駆けていった。

 きっとアキさんなら何らかの変化を起こせるはずだ。いつかそんなニュースを聞かせてほしい。

 アキさんが走っていった先には、すでに灯の消えた校舎が見えた。学校とは勉強を教わるだけの場所ではないことを改めて思う。問題を共有することもまた学びなのだ。

 さらば、フリーマントルの学び舎。そして愉快な仲間たちよ。

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