2000年3月4日
どのぐらい走っただろう。
人里離れたガソリンスタンドの玄関に腰を下ろしている。見える景色はといえば、火星の地表のような赤褐色の岩石と、まるで地球の果てまで続いているかのような幅広い国道だけだ。
喉が渇いた。次の休憩はいつかわからないが残っていたペットボトルを一気に飲み干す。時折見たこともない巨大なタンクローリーが大げさな砂埃を上げて走っていく。空は果てしなく青く、そして広い。地平線まで何一つない。地球という天体の上にいることを実感させてくれる。
オーストラリア第2幕は、この孤立無援の4文字を全うする荒野から始まる。
グレイハウンド・パイオニア社の15トンバスは、南オーストラリア州アデレードを目指す。俺は少し手前のポートオーガスタという町で降り、そこから「オーストラリアのへそ」と呼ばれるエアーズ・ロック行きに乗り換える。
パースからポートオーガスタまでが約2,400キロ。これを25時間で走る(※2020年時点、パース~アデレード間の長距離バスは運行されていない)。北海道の宗谷岬から鹿児島の佐多岬までが約2,700キロなので、日本最北端の碑から博多辺りまでの距離か。それでもオーストラリア西端から半分まで横に移動しただけの距離である。
ポートオーガスタで半日潰した後、オーストラリアの中心に位置するアリススプリングスまでが1,200キロ。そこからエアーズロックがあるウルル-カタ・ジュタ国立公園までさらに約500キロ。乗継待ち時間も含み3日間かけて4000キロ弱を移動する。その後アデレード・メルボルンとたどり、最後にシドニーを目指す。そこに少しだけ用事ができた。
「ホントっ?アタシに会いに来てくれるの!?」
サキは電話口で声を弾ませた。
アムステルダムの夜をさまよい、スイスの村で再会し、そしてパリの路上で2回も俺の首を絞めたあの「サキ」である。
ヨーロッパから帰国したサキは、東京で就職活動を始めた。それが「シドニーのホテルで仕事を見つけた」と言ってきたのは昨年の秋だった。たまたま日本語ができるスタッフを募集していたらしい。シドニーマリオットといえば、かのオペラハウスから徒歩10分という好立地にある5つ星ホテルである。
――せっかくリュウのいる東京に来れたのにゴメンね。
シドニーに出発する前日、池袋の喫茶店で向かい合ったサキの言葉に思わず顔をしかめた。たまに会って都会の愚痴を聞きながら食事をする仲にはなったが、パリから何度も言っているように恋人になった覚えは一切ない。そういう軽々しさが苦手なのだと苦情を言えば言うほど、サキは一生懸命可愛い女を演じようとした。
「――とにかく語学研修も終わったし、もともとシドニーから帰国する予定だったから、ついでにサキが仕事サボっていないか確認しに行くだけだよ」
受話器の向こうから「相変わらず格好つけるんだね」とバカにした声が返ってきた。
「シドニーに来たらアタシの部屋に泊まりなよ。この前妹が来た時もシングルベッドを運んでもらったから全然問題ないよ」
「問題ないわけないだろう!」
それって逆に変なこと考えてる証拠だよね、とふざけた声が被さる。どうしても俺とサキとはこういう乱暴なリズムになってしまう。とにかく10日後な、と告げると強引に受話器を切った。
「――なに地平線眺めてんだよ?そんなに珍しいか?」
この男の名はタイラー。西オーストラリアの漁師である。
「フリーマントルのタイラー様と言ったらオレのことさ。丘の上もいいが海はもっと広いぜ!」
手にはこういう男たちのために作られた「1ℓ」と書かれた太い缶ビールを下げている。異常に長い手足に顎まで伸びたモミアゲ。この海賊気取りの男は、強烈なオージー訛りにスラングを混ぜ、こちらが理解しているかなどお構いなしで陽気にしゃべり続けた。
「マグロ船のことを教えてやる。オレ様が追っているのはオマエら日本人が好きなクロマグロじゃねぇ。200kg級のメカジキだ」
タイラーはカバンの中から一枚の写真を取り出した。
そこには切り落としたメカジキの頭を股間に乗せたタイラーが写っていた。吻(ふん)と呼ばれるメカジキの鋭い上あごを、照り付けるインド洋の空に突き上げている。男子校出身者としてはこういう言葉を失うほどのバカ丸出しはキライではない。
「ヘミングウェイの『老人と海』みたいですね」
老人サンチャゴが5メートルの大物メカジキと3日間にわたる死闘を繰り広げるシーンはあまりにも有名だ。
「はぁ?ヘミングウェイ?そんな魚いねぇよ!」
彼の一般常識はこんなレベルである。
「ヘッ!アンタにはこの国道は広すぎるのかもしれねぇが、オレ様には手足も十分伸ばせねぇぐらい狭いぜ!」
この荒くれ者は田舎の両親に会うため、気の毒なことに今日は狭いエコノミーシートに閉じ込められている。
「細けぇことはどうでもいいんだよ。そろそろ出発だ!船に乗り遅れるな!」
タイラーは吸いかけのタバコを赤土の大地に投げ捨てた。
停まっているのは、砂ぼこりで車体の文字も読みづらくなった大型バスである。彼にとっては、子供用の三輪車でも「船」という単語で済む。
それにしても、暑くてひび割れてしまいそうだ。広大な大地に不時着した宇宙船は、はるか1000キロ先のポートオーガスタを目指して再びエンジンを入れた。
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