2000年3月5日

 疲れ切ったバスのタイヤは、ポートオーガスタという小さな町でようやく止まった。


「なんだと!?ブロークンヒル行きはもう行っちまっただと?ケッ!これだから丘の上は嫌になるぜ!」


 漁師のタイラーは冷静に説明する係員に喰ってかかった。

 彼の故郷ブロークンヒルは、ここから東に400キロの砂漠の中に忘れ去られている。そこが銀や亜鉛で栄えたのは四半世紀も昔のことだ。


「何もねぇ乾いた町だよ。いまだに年がら停電騒ぎだぜ。停電で生温かくなっちまったビールのことを地元じゃ”ショウベン”っていうんだ。やっぱりショウベンはキリッと冷えたヤツに限るぜ!」


 夜10時発の中部アリススプリングス行きまで、このの海賊と暇を潰さなければならない。俺はバスの待合所で2ドルを払い、メールをチェックした。


「なんだ?オンナか?」


 よく冷えたバドワイザー瓶を2本提げてきたタイラーは、眉をひそめながら画面を覗き込んできた。新着メールは2件。1通は“北京の姉”の于春麗ユー・チュンリーからで、6月中旬に1週間ほど東京に仕事で来るという内容。もう1通はシドニーのサキからだった。


<シングルベッドお願いしておいたよ。ちゃんとお寝んねできるように大きなぬいぐるみもお願いしておこうか?>


 相変わらず過激な内容を送ってきやがる。タイラーが寄こしたバドワイザーをあおるとため息をついた。隣の海賊は眉を八の字に曲げてタバコの煙を吐き出した。


「そんなに面倒くせぇんだったら相手にしなきゃいいだろう?それより今からオレ様が馴染みにしている店に行くぞ」


 カウンターの受付係がこちらを睨んでいる。タイラーは吸い殻を窓の外におもいっきり投げるとサッサと出口に歩いていった。



「――よぉ、アリス!調子はどうだ?」


 バーカウンターの内側でバーボンを並べていた女がタイラーの大げさな声に振り返った。


「あら、タイラー!てっきりサメに喰われて死んだと思ってたわ!」


 カウンターの内側から返ってきた言葉も海賊風だ。タイラーは俺の肩を馴れ馴れしく叩くと、再びアリスの仕事の邪魔をした。


「驚くぜ。コイツはなんとあのジャッキー・チェンの隠し子だ!毎月たんまりとオヤジから振り込まれるんだとよ!参っちまうぜ!」


 タイラーはデタラメをふりまきながら、忙しく働いているアリスを何とか振り向かせようとしている。


「はいはい。前回はガンジーの孫、その前はマイク・タイソンの従兄弟、そして今回はジャッキー・チェンの隠し子。アンタにはもったいないビックネームばかりね」


 アリスはタンブラーグラスを照明にかざすと、そこに大雑把にミントの葉とブラウンシュガーを入れ、上からライムを絞った。グラスを軽く混ぜると、そこにキューバ産ホワイトラムを注ぎ、上からソーダで満たしていった。


「とりあえずこれでも飲んで静かにしてなさい!」


 こんな暑い日にはモヒートがよく似合う。乾いた喉をホワイトラムの情熱とミントの清涼感が過ぎてゆく。


「ヘイヘイ、オレは海の男だぜ?こんなチキンのエサみてぇなもん喰ってられるか!」


 今度はアリスがテーブルに出したミックスナッツにいちゃもんを付けている。


「いちいちピーピーうるさいわね!ナッツ与えたらホントにチキン《臆病者》になっちゃったのね?」


 アリスの見事なカウンターパンチに、俺はタイラーを指さして笑った。しかしこの程度の波でひるむような男ではない。


「そうカリカリすんな。もしかして欲求不満ってヤツか?しょうがねぇなぁ、今夜はオレ様が泊まってってやるよ!」


 アリスは自分で作ったウイスキーソーダを空にすると、ニワトリの口真似をして再び俺を笑わせた。その後もふたりの海賊は、豪快に笑っては浴びるように飲むを繰り返した。その掛け合いを見ていると、愛や金よりも人を幸せにするものがあるような気さえしてくる。


「おい、茹でたエビでも買ってこい!こんなもんちまちま喰ってられねぇ!」


 ナッツの皿を端によけると、タイラーはポケットの中からしわくちゃになった20ドル札を引っ張り出した。なぜ急にそんなお遣いを言い出したのか、一応理解はしているつもりだ。バーテンダーの女を本気で口説いているのを見られるのは、さすがの海賊も恥ずかしかったのだろう。

 ところがようやくポップコーン容器いっぱいのボイルエビを持ち帰ると、タイラーはすでにつぶれていた。テーブルには例のカジキマグロの頭を股間に乗せた写真が散らばっていた。インド洋に突き抜けんとそそり立ったソレとは対照的に、タイラーはウイスキーソーダを半分以上残し、腕を枕に完全に落ちていた。残念ながらエビで鯛を釣ることはできなかったようである。


 俺の姿を見つけると、アリスは話しかけてきた。


「あら坊や、酔っ払い漁師さんの20ドルを持って逃げちゃったかと思ってたわ」


 さすがのアリスもだいぶ呂律が怪しい。


「ちょっと待ってください。はないでしょ?」


 アリスはさりげなく濡れたコースターを替えながら、「アタシったら酔っちゃったみたい」と、いきなり俺の頬に生暖かいものを押し当ててきた。


「――今のはタダにしてあげる」


 こめかみを抑えながら目を覚ましたタイラーに気付かれないよう、女海賊アリスは可愛いウインクを送ってきた。ポートオーガスタの小さなパブの物語である。

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