2000年3月7日
エアーズロックは、さび色の荒野をたった一人で支配していた。
滑らかな赤褐色の肌に、どこまでも続く青い空をまとっている。まるで唯一隆起したその岩以外何も存在しないと言い張っているかのようで、逆に不自然に思えるほどだった。
不自然といえば、その眺望を邪魔しないように設置されたテーブルと、その上で汗をかいているスパークリングボトルだ。観光バスから出てきた一団は、日暮れと共に表情を変えるエアーズロックをカメラに収めたりしていたが、やがてすぐその姿にもぬるくなった白ワインの味にも飽き、「帰りのピックアップはいつだ?」としきりに腕時計を見始めている。
坂下君はハエを手で追い払いながら近づいてきた。
「まぁね。エアーズロックは近くから眺めるもんじゃなかったっスね」
彼はそうつぶやくと地面を這うアリと遊び始めた。たしかにこの俗っぽいサンセットツアーはどうだ。”こういう景色を見て酔いたかったんだろ”と言わんばかりである。よい景色とは自分で発見してこそのものである。
ヨーロッパ人がオーストラリアに入植する以前から住んでいたアボリジニについて知っておく必要がある。
その数は現オーストラリアの総人口のたった3%に満たない。18世紀に入植してきたヨーロッパ人にスポーツハンティングとして野生の鹿のように虐殺され、ごく最近まで続いた※アボリジニ同化政策によって壊滅させられてきた結果である。
※ 純血アボリジニ廃絶のため、政府や教会主導で行われた児童隔離政策。親から無理やり引きはがされたアボリジニの子供の多くは、安い労働力や性の対象として売買されたとの報告がある。
信じられないことに、オーストラリア政府はこの政策の存在について、ごく最近まで隠ぺいに成功してきた。入植してきた祖先たちの黒歴史を今のオージーたちが知ったのは、1960年代のジャーナリズムによるところが大きい。
その黒歴史の中には、「テラ・ヌリウス」という土地や財産に対する侵害も含まれる。未登記の土地は発見者のものとするというヤクザな解釈がそれだ。土地の登記制度など存在しないアボリジニ部族社会に対し、「だから見つけた俺たちのモノだ」と入植者たちは威張り散らした。唯一ここエアーズロック周辺の荒涼とした砂漠地帯を「アボリジニ保護区」として隔絶し、社会問題から切り離してきたのである。
こうした信じがたい事実について、60年代にマスメディアによる発掘と追及が盛んにおこなわれた。政府や教会の保管庫に鍵付きで封じられてきた事実が次々と明るみになった。
1992年6月オーストラリア連邦最高裁判所は、アボリジニやトレース諸島のメリアム族に対してテラ・ヌリウスの無効を認め、翌93年に先住権限法を制定した。これにより審判所によって原住民の先住権が確認された場合、政府は先住民に対して金銭等の補償を行うことになった。
エアーズロックを含む聖地ウルルが、オーストラリア政府からアボリジニに返還されたのは1985年のことである。
我々がスパークリングワインを傾けながらフラッシュを浴びせているエアーズロックは、アボリジニの精神世界における霊峰である。観光客がキャッキャと騒ぎながら、杭打ちされた鎖につかまって登頂していいアトラクションではない。
※2019年10月25日、エアーズロックへの登頂は全面的に禁止された。
「――ただリスペクトしろってのは分かるんですけど、アレを見るとだいぶビミョーな気持ちになるっスね」
彼が顎でしゃくった先には、アボリジニとおぼしき浮浪者が缶ビールを片手に大の字になっている。
60年代の告発が、必ずしも白人社会を歴史の清算に向かわせたわけではない。むしろ一部の強硬な連中と奇妙な自己肯定を作り出したことも記しておかねばならない。
アボリジニを正式な国民として認めざるを得なくなったオーストラリア政府は、彼らの独特な通念には介入せず、基本的に自主性を尊重した上で生活保護制度を整え、建前上は共生を掲げるようになった。
しかし急激な環境変化はアボリジニの一部に堕落をもたらした。その顕著なものが飲酒問題である。アボリジニにはもともと飲酒の習慣は存在しなかった。しかし給付金に頼って暮らす人々のあいだでごく身近な娯楽として飲酒は急速に浸透したのである。そのために引き起こされた深刻な困窮や短絡的な暴力事件が報じられるたびに、過去は正しかったとはさすがに口にしないものの、白人社会は返って保守性を高めていった。
※ 03年オーストラリア保健厚生研究所の発表によれば、アボリジニ女性が暴行で入院する確率は、一般オーストラリア人女性の28倍にのぼると報告されている。
坂下君は地元長崎で美容師をしていたが、「全部がイヤになった」と日本を脱出してきたらしい。その膝には巣を張った大きな毒蜘蛛が彫られている。彼は地面を這うアリをそこに乗せた。
「毒蜘蛛って邪気や悪霊を追い払ってくれるんすよ」
アリは必死に坂下君のひつこい指先から逃れようと逃げているが、「コイツ、オレの毒蜘蛛にビビッてるんす」と楽しそうである。
夕陽を浴びエアーズロックはエネルギーの塊のような紅色に輝いていた。手持無沙汰の観光客に背を向けられようと、自信と威厳を放ちながらしっかりとそこに存在していた。
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