2000年3月16日
「…もう寝ないと」
コンソールの上に置いたデジタル時計が2時に変わった。サキはもう一度俺に覆いかぶさると、生温いものを首筋に押し当てた。そしてゆっくりと上体を起こすと、高いところでフフッと笑った。
今彼女がどんな表情をしているのか知りたい。サキの首に腕を回すともう一度引き寄せた…。
始まってしまえばあっという間だった。それまで薄々感じていた友情とは違う何かについて、嵐のような取っ組み合いが終わるまでお互い言葉にしなかった。一つの体として抱き、体温をしみこませた。それが弾けて散った後ですら、お互い獣のような荒い息を聞かせただけだった。
「アハハハ…」
「何だよ、アハハって?」
サキは俺の横にドカッと倒れると、「アハハはアハハだよ」と呪文のように唱えた。
「なんかさ、こういうとき何をしゃべったらいいのかなって。映画を観終わった後みたいな感じ。ゴメン、わけわかんないよね?」
同じものを観て、何かしら感じ合ったのに、なぜみんな下を向いたまま足早に映画館を去ろうとするのか。それにしても、そろそろこの”映画館”にも灯りも戻して、ベッドの脇に散らかった下着を拾わなければ――。だがこうして冷えた足を絡め合っているのは、この出来事にどういう名前をつけたらいいのか分からないからだ。
「アタシ、シャワー浴びてくるね」
誘ってくれないのか、とすねてみたがサキは何もいわずにバスルームに消えていった。男と女がお互いの内臓に触れ合ったのだ。間違えてしまった順番を「アハハはアハハ」だけで救おうとするのは無理だ。
しばらくして、田舎の中学生のような上下赤のジャージ姿が、濡れた髪をバスタオルではさんだまま出てきた。そのまま二人分の体温が残っているベッドを横切ると、サキは床に落ちたティッシュを拾ってゴミ箱に捨てた。その色気のなさをからかいたくもなったが、入れ替わるようにして俺はシャワーに逃げ込んだ。
今さっき、ここで熱いシャワーに打たれながら彼女は何を味わったのだろうか――。
「――じゃあ仕事行ってくるね、リュウ」
翌朝、サキは軽く手を振るといつものように出かけて行った。行ってきます、のキスもない。
「…オレの名前はリュウじゃねえぞ」
静かに閉じられたドアに向かってつぶやいた。
<――中国語が話せるからドラゴンのリュウ。格好いいでしょ?>
そんな出会いのアムステルダムから1年が過ぎた。その後パリのハーゲンダッツで突然キスをされた時も、新宿のタイ料理屋で酔った勢いの告白をされた時も、結局は”からかわれただけ”と片付けていた。リズム優先で進もうとするサキの行動に真意を見いだせなかった。だがそろそろ素直になってもいいのではないか――。
「アハハは、アハハか…」
アイツは家でテレビを見ながらどんなふうに笑うのか。ふとありふれた日常の中に溶け込んだサキを想像し、アハハと乾いた笑い声を立ててみた。
「――あのさ。6時半にカフェ・シドニーの窓際席を予約出来たんだ」
制服のまま足を投げ出して、ふくらはぎを揉んでいたサキは手を止めた。
「そんな気を遣ってくれなくていいよ」
相変わらず可愛げがない。椅子から立ち上がりサキのすぐ横に腰を下ろした。そして軽く息を吸い込むと「ちょっとこっち向いてくれる?」と静かに伝えた。
「なんだか順番が変になってしまったけれど、やっぱり曖昧なままはよくない。サキ、俺と付き合ってほしい。今日一日考えたけど、やっぱりサキのことが好きだと気付いた。こんな俺でよければ真剣に考えてほしい」
サキはその間瞬きもせずこちらを見ていたが、しばらくするとまたふくらはぎを揉み始めた。
「それって昨日セックスしちゃったから?だからそんなこと言い出したの?」
「ちがう。いつも俺たちは意地ばかり張って、お互いへの気持ちを誤魔化してきた。これからは素直になりたい」
「ふ~ん」
サキはまるで面白くないことでも指摘されたかのような態度だった。
「一日考えないとアタシのことが好きかわからなかったの?セックスしなかったらアタシのことなんて真剣に考えることもなかったんじゃないの?」
「そんなことはない。サキが一番好きだ」
「一番ってことは、二番三番がいるわけ?」
いちいち突っかかってくる彼女にイライラし始めた。
「ちがう!サキ以外誰もいない。サキのことが世界でいちばん好きだ!」
これ以上ない恥ずかしいセリフに、舞い上がっていた自分が急落していくのを感じた。それ以上を続ける言葉も見つからず、とうとう彼女の目からそらしてしまった。
「…あのね、こういうの圧迫面接って言うんだって。東京にいた頃たまにこういうムカつく面接があった。言葉尻をとらえて相手を怒らせようとするの。そうやって相手の冷静さを見てるんだって。イヤだったなぁ」
サキは独り言のようにつぶやいて笑った。
「ごめんね、リュウの本気を知りたかったの。セックスしたから付き合わなきゃって思われるのは絶対イヤなの。嫌な聞き方を繰り返してゴメンね。機嫌直してくれる?」
サキはそっと俺の手を握った。
「ねぇ。もう一回言ってくれる?さっき言ってくれたこと」
顔を上げるとサキは鼻声になっていた。
「サキに他に好きな人がいなければな」
彼女の目からキラリと零れ落ちた。
「いるわけないじゃん。リュウだけ。ずっと寂しかったよ」
やっと、やっと、お互い素直になれた瞬間だった。
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