2000年3月17日
エビとカリフラワーを使った前菜の皿が下げられた。
「…マスタードシードにチリペッパー、それからライムジュースね」
キッチンに戻っていくウェイターの尻を目で追いながらサキはブツブツと唱えた。
「ライムだけじゃなくて酢も足されてるんじゃないか?」
「たぶん白ワインヴィネガーだね。ドレッシングの中身を言い当てるなんてすごいじゃん」
サキはナプキンを唇に押し当てて目を細めた。しかしそもそも「料理の中身当てクイズ」など最初のデートでやるべきではない。おかげで食事中はお互い難しい顔をして押し黙り、ウェイターたちをハラハラさせた。
カフェ・シドニーは、シドニー湾の波止場にあるシーフード料理の名店だ。旧税務署の建物を改築したテラス席は予約が取れないことで有名らしい。ダメ元で電話したところ、初デートのロケーションとしては最高の席が取れた。
サキの実家は札幌市内で小さな洋食屋を営んでいる。そのキッチンを遊び場にして育った彼女にとって、テラス席からの眺望や充実したワインリストよりも、料理に隠されたシェフの秘密をあばくことのほうが興奮するらしい。
料理の中身当てクイズは「コースの中身は任せるよ」という言葉から始まった。サキはメニュー表をめくりながら「料理に興味ない人とは仲良くできないかも」と不貞腐れた。
「誤解だ。サキが食べたいものを二つまで選べるように任せただけだ」
サキは驚いてメニュー表から顔を上げた。
「リュウってそんなに優しかったっけ?」
関係が変わっても、こういう余計な一言は変わらない。何の相談もなく2人分のデザートまで注文し終えると、サキは思い出したかのように顔をあげた。
「ところでリュウって好き嫌いあるの?」
「あるよ。頼む前に相手に確認するのが筋ってもんだろうが。もし嫌いなもの出てきたらそのカワイイお顔に塗ったくってやる」
サキは唇を尖らせてイヤイヤと首を振った。
「大根おろしだよ。指先に付いただけでも発狂したくなる」
サキはバカみたいな声を上げて笑った。
大根全般がダメなわけではない。たっぷりとかつお節をのせた大根サラダは好物だし、おでんなら鍋底で出汁を吸ったものは欠かせない。
「それなのに何故すりおろす?その余計なひと手間のせいであの嫌な汗臭い匂いになっちまう」
食わず嫌いなど他人とってはだいたいが珍回答だ。なぜ大根サラダが大丈夫で大根おろしはダメなのかなど説明させるほうが悪い。ダメなものはダメなのだ。意味わかんないと首を振る彼女に「そっちはどうなんだ」と切り返す。
「たくさんあるよ。ピクルスとか漬物系はダメ。あとナッツ類にシイタケ。刺身もムリ」
今度は俺が笑う番だった。
「北海道出身なのに海鮮系が喰えないだと?」
「ついでに言えばバターもダメ。リュウだって東京生まれなのにもんじゃ焼きのことを『週末のプラットホームで見かけるヤツ』って言ってたじゃん。ウチは洋食屋だからいつも家中がバター臭いの。調子悪いときなんかあの匂い嗅ぐだけでもんじゃ焼きだよ」
これからメイン料理が運ばれるというのに誠にデリカシーがない。
「パパは元々フレンチのシェフだから、あの手この手でアタシが嫌いなものを料理に混ぜて食べさせようとしたの」
残念ながらパパのテクニックは、かえって彼女の料理に対する警戒心を鋭敏にさせた。味付けに何が使われているか言い当てるゲームは、そんな彼女の中にしみ込んだ防衛本能そのものだった。
カジキマグロのステーキが済むと、サキは満足そうに微笑んだ。
「――リュウとだったらうまくいくかも」
どうやら味覚テストは基準に達したらしい。シドニー湾の光をしばらく見つめていたサキは突然思いがけないことを聞いてきた。
「言いたくなかったら別にいいけれど、スイスで話してくれた中国人のカノジョとはその後どうなったの?」
どうやら味覚テストは単なる前菜で、いちばん気になっていたのはそこだったらしい。
「去年の夏、上海で別れた」
それを聞いたサキはホッと息をついた。
「スイスでその話を聞いた時ホントはちょっと妬いちゃったんだ。アタシにはちゃんと将来を考えてくれるカレシなんていなかったからさ」
ギャンブル癖のあるカレシに振り回され、サキは一時期ススキノのキャバクラで働いていた。
「きっとすごくレベル高い人なんだろうなって思ってた。あの頃のアタシは自己嫌悪まみれだったから、せめて爪痕だけでも残せたらって思ってたよ」
やっと聞きたいことを言えたサキは、少しだけおしゃべりに戻った。どんなに波長が合ったとしても、それだけで共振できるとは限らない。タイミングが悪ければ不協和音にもなり得るのが男と女だ。
「アタシね、いつかホテルをやりたいの。小さなゲストハウスでいい。それでホテルの隣に小さなレストランを作るの。リュウとアタシならきっとうまくいくと思う」
見晴らしのいい丘の上に小さなホテルとレストランを建て、宿泊客から旅の話を聞かせてもらう。サキとならできるかもしれない。
「悪くないな。だがレストランを作ったらまた家の中がバター臭くなるぞ」
サキは少し赤くなった頬を両手で包むと照れ臭そうに下を向いた。
「リュウとだったらバターの匂いも好きになるかも」
テーブルの反対側から差し出された手のひらはとても温かかった。
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