2000年2月26日
アヤコは泣いて、なじって、笑って、そしてしばらく沈黙した後、俺の首に腕を伸ばして引き寄せた。
「…その前にもう一度教えてくれ。俺とアヤコは付き合っていたんだよね?」
アヤコはペロッと舌を出すと「付き合ってないよ」と事もなげに畳んだ。
「ウソ。大好きなカレシだよ」
彼女は涙でぬれた頬を俺の胸にそっと重ねてつぶやいた。
たぶん東京で再会することはないだろう。これはぬくもりの確認ではなく、それを忘れないようにするための保存行為だ。強引なのが好きだというアヤコとは思えないほど弱々しい抱擁の中、皮膚とも粘膜ともつかないものを重ね合わせた。
もちろん華奢な手足も、男ゴコロをくすぐる可愛らしい仕草も、今も変わらず好きだ。このまま東京に持ち帰って育てたいとは思う。しかし外国にいるという特殊の中、お互い寄り添うものがほしかっただけなのかもしれない。アヤコが最初からそうした肌感覚を持っていたのかは分からないが、彼女が必死に守ってきた「誰も傷つかないためのシナリオ」を責めたところで、ここから前向きな方向につながるとは思えない。この先どうなるかはエネルギーの流れ方に任せるとして、今は自分が理解したいように理解しようと決心した。
「――オーストラリアで過ごす最後の週末になったね」
来週にはアヤコは帰国する。彼女がいれてくれたコーヒーをベランダで飲みながら、夏の緑をかけぬける風を浴びていた。
「あのね、ジョニーが謝ってきたの。あなたのことでウソをついてゴメンって。あなたはきちんとけじめをつけて、わたしと恋愛をしようとしていたんだよね。あなたの誠意まで疑ってしまってごめんね」
…ったく、ジョニーのヤツ。そっとしておけばいいものを、またしても余計なことをしてくれたな。
しかし彼なりに消化不良を解消しようとしてくれたことについては素直に嬉しかった。
「もういいよ、そういう話」
「ダメ。ちゃんと謝まらないとわたし東京に帰れないよ。こんなに好きになってくれた人を、」
またあふれてきた彼女の涙を見て面倒くさいと思った。謝ったり、謝られたりの日々はもううんざりだ。あくびを噛み殺している俺を見てアヤコは急に詰め寄ってきた。
「わたしもジョニーもあなたみたいに器用じゃないんだよ」
決して器用に消化しようとしているわけではない。ただ残された時間を考えると、今はそれぞれが都合よく理解するしかないのだ。キッチンにマグカップを置いてベランダに戻ってきたアヤコは、代わりによく冷えたハイネケンを2本持ってきた。
「はじめての海外だったから何度も辛くなってしまった。頼れる人もいないし、弱音を言える人もいないし。そんな時あなたが現れた。わたしなんか半年もこっちにいるのにいまだに英語で話しかけられるだけで委縮しちゃうんだよ。でもあなたは違った。英語や中国語で言われたことをちゃんと受け止めて、違うと感じたことはハッキリと意思表示できる。堂々としててとてもカッコよかったよ」
アヤコは恥ずかしまぎれに舌を出した。
「でもねもし日本で知り合ったらどうだったかなって。だからあなたの好きなとこを一生懸命探してもっと好きになろうとしたの。でも気持ちばかり焦ってしまって、自分の理想にあなたをはめ込もうとしてしまった。ジョニーにあなたとのことを聞かれた時、正直あなたの何が好きなのかうまく伝えられなかったの…」
”あなたのことは好きだけど愛せない”とつぶやいたアヤコの苦悩がよくわかった。確かにお互いの体のもっと深いところを知るには時間がなさ過ぎた。
彼女が焦ってしまった本当の理由は、普段の彼女からすればあまりにも軽率だった自分に対する言い訳だったのではないか。おそらく東京にいる彼女はとても慎重で、ある意味不器用で、たやすく他人に心を明かさない性格なのかもしれない。
たまたまオーストラリアで知り合ったこの男は、自分の秘めた理想をかなえてくれる人でなければならない――。ところが「アヤコが好きなほうを選べばいいよ」といつも微笑んでいるこの男を知れば知るほど、理想とのギャップが広がっていった。そこにさらにジョニーのデマが加わり、いよいよ整頓がつかなくなってしまったのだろう。
たしかにアヤコやジョニーからすれば、俺は飲み込みが早すぎるのかもしれない。しかしそれぞれ言いたかったことを言えたのだから、あとは窓を開けて換気すればいいではないか。涙もわだかまりも、夏風に解き放って忘れてしまえ――。
「…ジョニーのこととかもうどうでもいいよ。それよりも恋人と呼べない人と旅行したりセックスしていたとしたら、俺にとってはそっちのほうが傷が深いな」
よく冷えたバドワイザーをあおると俺はアヤコに向き直った。
アヤコにとって、泣いたり笑ったり忙しかった一日が暮れようとしている。しばらく俺の肩に頬を預けていたアヤコが突然肩をゆすって笑いはじめた。それにつられて俺も久しぶりに笑った。アヤコは吹っ切れたような表情で俺を見上げると、その華奢な手で頬に触れてきた。
「――付き合ってなかったらあんな大きなハート形のチョコレートをあげるわけないじゃん。義理チョコですってごまかせる大きさじゃなかったでしょ?」
こうして西オーストラリアに沈む大きな夕陽と共に、バレンタイン狂騒曲はようやく幕を閉じた。
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