2000年2月24日

「――ケンカの止めに入って大怪我をしたんだって!?ナンシーから聞いたよ」


 青ざめて帰宅した俺の顔を見た”裏切者”は、キッチンからのんびりした声をかけてきた。「ダメだよ、こっちじゃナイフ持ち歩いてるヤツもいるんだし」という声を遮ると、俺は一息に切り出した。


「ジョニー。ちょっと話がある」


 それは、長い夜の始まりだった。



 珍しく強い風が吹きつけていた。アヤコのアパートからの帰り道、黒い夜風に追いたてられながら改めてこれまでを振り返った。

 俺とエマとの事情については、ジョニーがどう状況分析したところで何の可能性も残っていない。たしかに未練がないわけではないが、これ以上何をどう喚こうと、0が1になる可能性すら残っていない。先日ジョニーにも見せた<Thank you, but good-bye>というメールはアヤコに対するけじめという意味もあったが、アタシが間違ってましたというエマからの返信を期待し続けている自分へのピリオドでもあった。

 にもかかわらず、”あの日本人には忘れられない人がいる”などとアヤコに伝えるのは詐欺だ。そこは謝ってもらわなければならない。しかし、この留学期間だけうまくやり過ごせば、ジョニーとのこともいつかは笑い話になると考えていた俺の方がよほど罪深い。

 ジョニーはオーストラリアに来て最初の友達である。その彼からアヤコへの告白の手伝いを頼まれていながら、立場を利用して親しくなり、ついには一線を越えてしまった。すべては自制できなかった俺が悪いのだ。


 ドクドクと脈打つ左手を押さえながら夜道を急いだ。まずは俺から謝ろう。それが筋というものだ。

 君が好きになった人を奪ってしまった。どれだけ君を傷つけたことか。俺もアヤコも東京に戻ってしまえば、君についた嘘も忘れられると思っていた。だがその前に君に筋を通すべきだった。正々堂々とアヤコのことを好きになってしまったと告げ、彼女を幸せにしたいと宣言するべきだった。しかし俺はそれをうやむやにした。君が俺を恨むのは無理もない。つらい思いをさせてしまったことについて心からお詫びをしたい。友情を裏切った俺をどうか許してほしい…。



 時計は深夜1時半を回っていた。

 時間をかけ、俺はジョニーにすべてを伝えた。最初おびえた表情をしていたジョニーだったが、次第にいつもの穏やかな彼に戻っていった。


「…いいんだ。こっちこそアヤコにも君にも申し訳ないことをした。たしかにバンコクの彼女については事実と違うことをアヤコに言ってしまった。悔しかったんだよなぁ」


 とりあえずジョニーはすべてを受け止めてくれた。もちろん言いたいことはたくさんあったはずだが、それ以上俺をなじることなくジョニーは理解を示してくれた。


「だけどさぁやっぱりキミたちは付き合ってたんだね。アヤコは否定したけど」


 そろそろ話を切り上げようと思っていた時、ジョニーが何気なくつぶやいた一言に引っかかった。


「いや、告白に失敗した後もアヤコとのメールは続いてたんだけど、その中で頻繁に君の名前が出るようになったんだよなぁ。だから思い切って聞いたんだ。彼のことが好きなのかって。けどアヤコは”彼とはまだ付き合っていない”ってハッキリ言ってたよ」


 メールを続けてた?

 彼とはまだ付き合っていない?


「”真っ直ぐでいい人だけど、何を考えているのかわからない”って書いてあったよ。それで僕はてっきりアヤコは君と付き合うか迷っているんだと思ったんだなぁ。だからつい”彼には忘れられない人がいる”って言っちゃったんだけどね」


 まるで無重力に放り出されたような感覚に襲われた。

 ペロっと舌を出すアヤコの顔が浮かぶ。一泊二日のお泊りでセックスまでしたのに、あれはただのじゃれ合いだったというのか――。

 ダメだ。整頓する時間がほしい。


「ちなみにそのメールっていつのこと?」

「えっと3日前の月曜日かな」

「土日にロッドネスト島に行ったこととか何も言ってなかった?」


 うっかり口が滑った。ロッドネスト島のことは余計な情報だった。

 ジョニーは眉を吊り上げ「ロッドネスト島!?」と素っ頓狂な声を上げた。


「土日はタイ人たちとパーティーじゃなかったの?ウソついてふたりでロッドネスト島に行ってきたのか!?」


 うなだれて頷くと、ジョニーは「ファーーック!」と叫んだ。

 もう十分だ。これ以上はお互い傷を深めるだけだとなりそれぞれの部屋に戻ることにした。そのままベッドに倒れ込んだが無性にタバコを吸いたくなった。裏庭に出るとジョニーもライターを持って現れた。


「それにしても酷い話だな。正直に言うが、俺はアヤコからジョニーとはその後一切連絡を取っていないと聞かされていたぞ」


 ジョニーはしばらく不機嫌そうな顔をしていたが、やがて諦めたように首を振った。


「冗談じゃないよ!日本人の彼、つまりキミからストーカーされて困っているってアヤコは言ってたぞ!」


 即座に「それは盛ったな?」と指摘するとジョニーはあっさり認めた。どちらともなく笑いはじめると互いの肩を叩き合った。まあまあの着地である。

 ところでアヤコは一体何を守りたかったのか。俺とジョニーの双方にいい顔をしつつ、何のためにバランスを取ろうとしていたのか。見上げると、空はうっすらとした青さを取り戻し、西オーストラリアの夜明けを告げていた。

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