2000年2月12日

 パース駅の改札の外で小さく手を振っているアヤコが見えた。彼女は額の下に手を当てると、遮った日差しの下でえくぼを作った。


<どうしてもお話ししたいことがあって明日の放課後会えませんか?パース駅の改札を出たところで4時でどうでしょうか>


 理性と鼓動がぶつかった。

 ジョニーがアヤコに思いをぶるけるバレンタインまであと2日。そのための情報を引き出すだけだ――。自分にそう言い聞かせると、「では明日の4時にパース駅で」と返信してしまった。


 アヤコとのやりとりに、ジョニーのノートパソコンを借りるのをやめた。実際には、わざわざ学校のコンピュータールームを借りなければならないほどの中身を交換し合っているわけではない。父親が来年の国際マラソンのポスターを監修することになったとか、高校時代に水泳で県大会に出場したとか、そんな身の上話しがほとんどだ。しかし、ジョニーのパソコンを借りたくない理由はそこではない。彼女からのメールにはジョニーに対する苦情であふれているからだ。



「――メールでもお伝えしたようにジョニーはそもそも別のクラスの人なんですけど、毎日昼休みにわたしの席に来て話しかけてくるんです」


 駅近くのカフェは、平日の午後ということもあって空いていた。向かいの席に座ったアヤコはアイスカフェラテを一口すするとため息を付いた。


「ジョニーってモゴモゴ話すじゃないですか?わたし、ああいうのすごくイライラしちゃうんです。普段もあんな感じなんですか?」


 思わず吹き出した。


「そんなことはないですよ。昨日も部屋で宿題をしていたら外からジョニーの声が聞こえて、何かと思ったらカギを学校に忘れてきてしまったらしく、ご近所に聞こえるぐらいの声で『漏れそうだっ!』って発表してましたよ」


 アヤコは膝を叩いて大笑いした。お二人はホントに仲良しなんですね!と彼女は微笑んだ。


「まぁジョニーのアヤコさんに対する気持ちはお察し通りで、ヤツはアヤコさんの前では緊張してああいう声になっているんです。漏らしそうになればちゃんと大きな声が出せる男です」


 しかしジョニーに対する苦情とは、「声が小さい」などという程度ではない。それを思えば、どうか2月14日など来ないでくれと神に祈りたくなる。


「そもそもああいう優柔不断なタイプが苦手なんです。グイグイ引っ張って、むしろ束縛するぐらいの人がいいんです。優しさなのは分かるけど、逆に頼りなく見えてしまうんですよね」


 そこまで言い切られてしまうと二の句が繋げない。彼女が求めるのは明快な男子らしさと今更ジョニーに届けたところで、ここからひっくり返すのは魔術師でも難しい。

 もちろんアヤコは2日後のバレンタインに、ジョニーがバラの花を携えてアパートに押しかけてくることなど知らない。ジョニーもここまで状況が絶望的であることに気付いていない。このままでは2月14日は友人ジョニーの命日になってしまう。


「そろそろ歩きませんか?」


 これ以上この話題に耐えられなくなり、伝票を取ると立ち上がった。

 キングスパークはパース市内の小高い丘の上にあり、まばゆく光るパースの高層ビル群がスワン川の川面をきらめかせていた。その景色が見下ろせる芝生の上で、他のカップルと混ざって腰を下ろした。


「――あのぉ、この前メールで変なこと聞いちゃってごめんなさい。日本で待っているカノジョさんがどうのこうのって。後ですごく反省しました」


 アヤコは下をうつむいたままつぶやいた。


「じゃあ逆に質問ですけど、アヤコさんには日本で待っているカレシさんはいるんですか?」


 彼女はすぐに「ズルいですよ!」と声を挙げた。そして「じゃあ当ててみてください」といたずらっぽく笑うと、アヤコは俺の顔をのぞき込んだ。


「こんな美人を周りが放っておくわけないでしょ」

「え~、ホント?美人だなんてそんなこと言われるのすっごい久しぶり!わたしって馴れ馴れしいからいつも周りから妹扱いなんです。カレシもしばらくいません」


 アヤコは屈託なく笑うと、俺の膝をポンポンと叩いた。


「今度はこっちの番です。カノジョがいるのか当ててみます」


――エマに送ったメールの返事はまだ来ていない。


「…いませんよ。そんな人」

「ウソ~、じゃあわたしと同じ一人ぼっちってことですね!」


 想いを断ち切るようはっきりと声に出した途端、何かが心の中で音を立てて千切れた。アヤコは一人ではしゃぎ、その後もキングスパークをゆっくりと歩きながらおしゃべりをつづけた。


「――じゃあ何座ですか?」

「しし座です。アヤコさんは?」


 血液型の次は星座か。アヤコは突然「パパと一緒だ!」と声を上げた。


「しし座はワンマンで独占欲が強いから、周りをぐいぐい引っ張っていくタイプですよね。わたしはさそり座の女。♪さそりの毒は、あ~と~で~き~く~の~よ~♪」


 そう口ずさむと、彼女は爪の先で俺の二の腕にチクリとやった。


「さそり座はね、狙ったものはどんなことがあっても諦めません。遠回りしても手に入れるまで必ず追いかけますから」


 その表情にしたたかな本質を見た気がした。だが一方で、彼女ともっと秘密を共有したいとも思った。スワンリバーにきらめくパースの高層ビル群が、ふたりをキラキラとした光で包み込んだ。

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